藤原道長の父・兼家は、どのように権力を勝ち取ったのか? 『蜻蛉日記』藤原道綱母も絡んだスパイの危機があった
■藤原道綱母の養子への求婚を装ったスパイ活動? 『尊卑分脈』によれば、「本朝第一美人三人内也」というから、とてつもなく魅力的な女性だったのだろう。権力欲にまみれた兼家でさえ、あしげく通い詰めて、ようやく気に入られるようになったというほどだから、かなりの美女だったことは間違いなさそうだ。 ちなみに、兼家の正妻は時姫で、道隆、道兼、道長らの母である。道綱は兼家の次男ではあるものの、母が正妻ではなかったことから、異母弟にあたる道兼や道長よりもかなり出世が遅れたようである。 この兼家、権力者によくありがちな女好きで、時姫を始め、知られているだけで9人もの妻がいたというから驚く。道綱母は2番目の妻とはいえ、次々と現れる女たちに嫉妬の連続。その苦悶の様子が記されたのが『蜻蛉日記』である。 ここで今回注目したいのが、兼家の弟・遠度(とおのり)である。彼が、道綱母が養女とした女性(源兼忠の娘が生んだ女性で、父は兼家)に求婚したことが問題であった。つまり遠度は異母妹を妻にしようとした訳であるが、問題はそこではない。 実は、求婚とは名ばかりで、その実、兼通の意を受けた遠度が、兼家邸に潜り込むためだったと見られることがあるのだ。目的は、手っ取り早くいえば間諜、つまりスパイである。 兼通はそこまでして、兼家の動向を探り、あわよくば弟を蹴落とすに足りる情報を得ようとしたのだろうか。この辺りは少々深読みのし過ぎと捉えかねないところではあるものの、兼通の兼家嫌いを慮れば、まんざらあり得ない話ではない。要するに、そんな風に疑われるほど、二人の仲が悪かったということである。 ただし、この遠度の養女への求婚事件、兼家が警戒したことで、いつの間にかうやむやになってしまったようだ。 最後に、この兄弟がその後どうなったかにも触れておこう。病の床にありながらも、最後の除目を行なって弟を降格させた兼通も、その翌月には早々に薨去。残された兼家はその後復権を果たし、摂政にまで登り詰めることができた。娘の入内も叶って、生まれた孫が天皇に即位(一条天皇)したことで、外祖父として絶大な権力を手にすることができたのである。 その子である道隆、道兼、道長が相次いで摂関の座に就いて権勢を誇ったことはご存知の通り。結局、この二人の兄弟喧嘩、勝者は兼家であったとしておくべきだろうか。 画像…菊池容斎 (武保) 著『前賢故実』巻第5,郁文舎,明36.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778241 (参照 2024-04-01) 編集部にてトリミング
藤井勝彦