【特集】長年の「偽物説」を覆した多賀城碑 知られざる研究成果
著名な学会誌に「偽作説」…覆すのに1世紀近く
「多賀城碑は偽物である・・・」 「江戸時代に仙台藩が作った偽作ではないか・・・」 偽作の疑いだ。 主張したのは喜田貞吉、田中義成ら権威ある歴史学者。 著名な学会誌に偽作説を投稿、真偽論争が沸き起こった。 偽作説の根拠には ・「多賀城創建」がどの歴史書にも記述がないこと ・碑には天平宝字6年=762年に「修造した」と刻まれている点が 不可解であることなどがあげられた。 やがて偽作説が定説になっていった。 偽作の疑惑が晴らされ、「724年創建」が史実になるまで1世紀近くかかった。
偽作説はどのように覆したのか?
偽作説を覆す研究の第一人者、国立歴史民俗博物館の平川南名誉教授。 50年前、研究のため多賀城に赴任した当時をこう振りった。 偽作説を覆す研究 平川南名誉教授 「地元の市民に多賀城碑に案内されて『これ偽物です』とはっきり言っていた。絶対に創建年代を明らかにするんだと」 では偽作説はどのように覆したのか? 先鞭を付けたのは1963年、東北大学の伊東信雄教授らが開始した発掘調査。 当時は考古学の技術が未発達だった時代、多賀城の発掘は全国から注目を集めた。 その後、平川名誉教授も調査に加わり1983年、南門跡から政庁跡に至る道路下から創建時期を裏付ける重要な証拠が発見された。
発掘されたのは「戸籍」
文字が書かれた木片。ある家族の名前の一覧が記されている。 これは当時、普及しはじめていた「戸籍」であることが分かった。 東北歴史博物館 吉野武所長 「多賀城は蝦夷を懐柔して公民に取り込む特殊な任務を持っていた。民衆を支配するために用いたのは戸籍。現代の戸籍と同じように1人1人帳簿に登録してそれを基にして税金を取る」 多賀城創建に先立つ710年、奈良に平城京が築かれ、律令と呼ばれる法律を基に、中央集権国家の建設が始まった。 その際、朝廷が重視したのが戸籍だった。 多賀城創建後、最初の行政事務が戸籍の作成だったと考えられている。 平城京創建が710年、多賀城創建が724年、戸籍の普及した時間などを考慮すると多賀城碑の内容は"史実に矛盾しない"という結論が導き出された。 偽作説を覆す研究 平川南名誉教授 「石碑にぴったり合う。この碑は大変な碑、驚くべきこと。多賀城碑を後に作ることはできない、偽作することはできない」 さらに多賀城が「修造」されたこともわかってきた。 多賀城の中心・政庁の建物が蝦夷による放火、貞観地震の復旧など3度の修造が繰り返されていたことが判明。 そのうちの一つは碑にある通り、天平宝字6年=762年前後と推測される結果になった。(760~780年) 東北歴史博物館 吉野武所長 「反論が出る余地がなくなった。多賀城碑に書かれた年代と矛盾がない。やはり本物ではないかと」