【書評】「北大三傑」の大志を描いた評伝:芦原伸著『北の星たち 新渡戸稲造、内村鑑三、有島武郎』
著者、先輩の足跡をたどって執筆
本書は3人の単なる伝記ではない。読者をひきつける物語になっているのはなぜか。それは1946年生まれの著者、芦原伸(あしはら・しん)氏の経歴と深く関係している。北大文学部を卒業、ノンフィクション作家、紀行作家として世界を旅した。退職を機に群馬県浅間高原に山小屋をもち、軽井沢にも通うようになった。 つまり、先輩に当たる「北大三傑」ゆかりの現場にも自ら足を運び、“伝記紀行”とも呼べる本書を執筆したのである。 偶然の出会いもあった。著者が83年に雑誌の取材で訪れたカナダの「ヴァンクーヴァー島」で宿泊したホテルは、新渡戸の「最後の滞在地」だった。新渡戸は1933(昭和8)年、カナダでの第5回太平洋会議に出席した後、メアリー夫人とこのホテルで休養したが、急に体調を崩し、同年10月15日に現地の病院で客死した。 有産階級だった有島は1922(大正11)年、北海道狩太村(現ニセコ町)の「有島農場」を小作人たちに無償で解放した。その翌年の6月9日、軽井沢の別荘で「婦人公論」記者の波多野秋子と情死した。著者が「有島武郎終焉(しゅうえん)地碑」を訪れたのは2022年6月9日。「なんと九十九年後の同月同日に私ははからずもこの地に立っていたのだ」。著者は有島の心中事件を自己解放の「尊厳死」だったとの仮説を立てている。
戦争の時代に「人道主義、自由主義」
著者は2023年6月、内村の終焉の地も見学した。現在の東京都新宿区北新宿3丁目。1930(昭和5)年3月28日に亡くなるまで暮らした住居跡だ。 内村は第一高等中学校の教員だった1891(明治24)年、教育勅語に対する「不敬事件」を起こして辞任した経緯がある。その後、著作活動を続け、日刊新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」英文欄主筆としても健筆を振るった。足尾銅山鉱毒反対運動にかかわり、日露戦争の開戦前夜には非戦論を唱えた。 「北大三傑」が生きた明治から昭和初期は戦争の時代でもあった。日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と10年刻みに戦争が起きた。しかし、国際平和を希求した新渡戸や内村は「権力になびかず、時流におもねることなく、戦争に反対し、軍部批判を行った」。有島の「農場解放」は戦後の農地解放の先駆けともなった。 「彼らに共通するのはヒューマニズム(人道主義)であり、リベラリズム(自由主義)であった。ともに留学したアメリカ東部ニューイングランドの清教徒精神を受け継いだことも共通している。」