「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も
岩波映画社では、子供向きの科学映画など手がけていた田原氏が、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に移ったのは、昭和38年(1963年)だった。翌39年(1964年)の開局に合わせて、アチコチから映画やテレビの経験者が集められたのである。 「田原は“オレがオレが”という男ではないけど、真っ先に頭角を現した。いい作品を撮っていたね。ドキュメンタリーの中でディレクター自らが出演してインタビューするやり方を、自分で形として作り上げた。今の田原のスタイルはそこで芽生えたんじゃないか」 とは、東京12チャンネルで同期の倉益琢真氏だ。 「70年安保の時、彼は藤圭子のドキュメンタリーを撮った。彼女の『夢は夜ひらく』は若者の応援歌で、藤圭子自身も当時の全共闘のアイドルだった。田原一人でインタビューしてまとめたものだったが、視聴率が普段の倍に跳ね上がって、みんなびっくりした」
相手を追い込んでゆくやり方
東京12チャンネルで週1回放映されていた「ドキュメンタリー青春」の中に田原氏の代表作が多い。 「打ち合わせもほとんどなく、フィルムが回っている3分間は好きなことを喋っていいと言われ、“芸術家を殺しに青森からやってきた”とか言いたいことを言っていました」 というのは、「ドキュメンタリー青春」に出演したフォーク歌手の三上寛氏。 「僕は世に出たいと思っていたから歌えと言われれば歌ったり、積極的にパフォーマンスをした。でも、田原さんのやり方は、人を追い込んでゆく。気持ちの良い方向ではなく、言いにくい方へもってゆく。最終的に撮っている最終に逃げ出した。25分番組であと5分で完成というところで、逃げました。後で放送を見たら、残り5分のところで田原さんが画面に出てきて、僕に向かって“どこに行ったんだ”と呼びかけている。シュンとなりましたね。後に『朝まで生テレビ』にパネラーとして出ましたが、相手を追い込んでゆくやり方は、当時と変わりません」 田原氏自身、 「ドキュメンタリーは、怒ったり、泣いた時が良かったりするものですよ。そうなれば成功です」 と語っている。「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ」で出演者を挑発したり、怒鳴ったりするのもまさに演出なのだ。