「田原総一朗」妻の葬儀には総理大臣らが続々と 「朝ナマで相手を追い込んでゆくやり方」は昔からとの証言も
政財界の大物が次々と葬儀に
平成16年(2004年)8月20日夜。東京・築地本願寺に次々と黒塗りの大型車が到着する。 車から降り立ったのは、小泉純一郎首相、岡田克也民主党代表、神崎武法公明党代表、市田忠義共産党書記局長など各党代表者。さらには、平岩外四元経団連会長、西川善文三井住友銀行頭取、御手洗富士夫キヤノン社長などの財界人。異色なところでは、朝鮮総連の最高実力者、許宗萬責任副議長なども顔を見せた。 彼らは、その1週間前の8月13日、67歳で亡くなった田原節子さんの弔問にやって来たのだった。ジャーナリストでキャスターの田原総一朗夫人である。 通夜の参列者数およそ1000人。翌21日に執り行われた告別式にも大勢が参列した。いかに著名といえども、一人のキャスターの夫人の死に際して、 「これだけ錚々(そうそう)たるメンバーが集まったのは、後にも先にも聞いたことはない」(政治部記者) 一方、節子さんの死は一般の人々の関心も集めた。平成15年(2003年)1月に出版された田原夫妻の共著『私たちの愛』は、二人の出会い、27年間のダブル不倫、再婚、乳ガン発症、そしてガンとの闘いを包み隠さず書き記したベストセラーだったからだ。彼女の死は、闘いの終わりを意味していた。愛の物語の美しい結末。人々はそう思った。しかし、ほんとうにそうなのだろうか――。
作家志望だった少年時代
〈最も政界に影響のあるキャスター〉 と、称される田原氏は、昭和9年(1934年)4月15日、琵琶湖畔にある井伊家の居城で知られる滋賀県彦根市で、4人きょうだいの長男として生まれた。生家は、芹川沿いの“七曲り”地区にある。伝統工芸品の彦根仏壇の発祥の地で、今も大勢の仏壇職人が住む。 「田原家は総一朗さんの祖父の代は生糸工場をやっていて、横浜に支店を持つほどの羽振りでした。女中さんもいっぱいいて、娘を嫁に出す時、女中付きで出したものです」 とは親戚の人。 「ところが、関東大震災で横浜支店は崩壊、おまけにおじいさんも脳溢血で倒れてしまい、生糸工場も廃業に追い込まれたのです」 田原氏が生まれた当時、生家は没落していたものの、麻工場を営み、細々と落下傘用のひもを製造していた。だが、戦争終結とともにその需要もなくなった。 「家計は苦しく、両親は総一朗さんを、地元の滋賀大か京都大に入学させ、アルバイトで生計を助けてもらいたいと思っていた。しかし、本人が早稲田に入りたいと言い出したのです」(同) 作家志望だった。 「彼は小学6年生で『憧れの甲子園』という小説を書いていました。高校時代にも、高校新聞で連載小説を書くほどの文学好きです」(友人) 当時、田原氏が通っていた彦根東高校の英語教師に、後に社会党代議士になる上田哲氏がいた。 「田原くんはよく私の下宿に遊びに来ていましたよ。後に『朝まで生テレビ』にゲストとして呼ばれた時、必要以上にしつこく攻められました。昔の関係にこだわらない、という気持だったのでしょうがね」 両親に月々仕送りすることを条件に東京行きを許してもらったのは、昭和28年(1953年)3月。早稲田大学第二文学部に入学し、昼間は日本交通公社で働いた。初任給は5500円。毎月1000円を実家に仕送ったという。 「7年前、お母さんが亡くなるまでずっと仕送りをしていましたね。亡くなる頃は月20万円送っていたと聞きます」(近所の人) 田原氏を東京へ駆り立てたのは、作家への夢だったが、すぐに断念する。 「同人誌に書いても“文才がない”と言われる。石原慎太郎の『太陽の季節』を読んでこれはダメだと思った。さらに、大江健三郎の芥川賞受賞作品を読んで、完全に挫折したんです」(田原氏本人)