【毎日書評】人生はそもそも厄介なもの。養老孟司さんが考える「人生の壁」
人生はそもそも厄介なもの
面倒くさいことがまったくない人生というのは、決して素晴らしいものではありません。むしろつまらないものです。ここを勘ちがいしている人がいます。面倒なことがなければないほどいい、と。 ある場面において、面倒くさいことを引き受けてこなかった人が、そのあとの人生を良いものにしているかは疑わしい。実際に面倒を要領よく避けてきた人のその後を見ても、そう感じます。(187~188ページより) なぜなら、結局はそのあとまた同じような問題に直面することになるから。そしてそんななか、「どうすればいいか」がわからない状態になってしまう。そのため逃げることを選んだり、立ち往生してしまうことになるわけです。 つまり著者の「厄介なことは『学習の場』である」という主張には、そういった意味が込められているのです。(186ページより)
「生きづらい」は嫌なことば
若者の生きづらさ、中年の生きづらさ、管理職の生きづらさ…他にもいろいろあるでしょうが、「生きづらさ」ということばを目にする機会は少なくありません。あらゆる人が生きづらく感じているからなのでしょうが、著者はこれを「なんとなく嫌なことばだな」と感じるのだそうです。 そもそも、職種や立場、年齢などによってさまざまな「つらさ」があるはずです。にもかかわらず、それらは一般化して語られるようになっている。そこに違和感を覚えていらっしゃるようなのです。そして、それは社会が単調化して横並びになっている証拠なのかもしれないとも述べています。 多くの人は一定の決まった場所に行き、給料をもらう暮らしを送っています。著者のいう「単調」とはそういうこと。ところが、第一次産業ではそうもいきません たとえば漁業なら、「あいつは大量だったのに、うちは全然だめだった」などということは珍しくないはず。農業でも、「うちは虫が出て大変だけど、あっちは無事らしい」とか、「うちは水に浸かったけど、あっちは大丈夫だったようだ」というようなこともあるに違いありません。いいかえれば、そういった生活は多様性を前提としているわけです。 日々の生活に動き、浮き沈みがあると、いちいち「生きづらい」などと言っていられないのです。それどころではない。 少々の苦労は修行と思えばいいのに、それを自分で「生きづらさ」に変換してしまう人もいるようです。修行と捉えることで、楽になれる面もあるはずですが、なかなかそう割り切れない。(199ページより) なお、ここにはおそらく体力が関係してくると著者は指摘しています。重いものを持ち上げられることも体力ですが、それだけではないというのです。筋肉に加えて内臓、脳も含めた体全体が持つ力こそが体力だということ。いわば、体が持つエネルギー全般を指しているわけです。 そういった体力が落ちてくれば、つらくなってきても当然。我慢も効かなくなるかもしれません。興味深いのは、歳をとると「体が資本」だということがしみじみわかるという著者の記述です。(198ページより) 生きていればさまざまなことが起こりますし、ましてや社会は激動しています。だからこそ大切なのは、先達のことばを聞くことではないでしょうか。そういう意味で本書は、多くの方が参考にするべきだと感じます。 >>Kindle unlimited、2万冊以上が楽しめる読み放題を体験! Source: 新潮新書
印南敦史