撮影所に海パン、アロハシャツで現れ“別格”のオーラ…“最後の銀幕スター”小林旭が見た石原裕次郎の凄み「大したもんだって感心したよ」
当時、松竹では三部作の『君の名は』(1953年、大庭秀雄監督)が大ヒットを記録し、ヒロインの岸惠子がショールを頭からかぶる“真知子巻き”が流行していた。東宝では『七人の侍』(1954年、黒澤明監督)が革新的な時代劇として高い評価を得て、ヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞。映画が“娯楽の王様”と呼ばれる黄金時代が幕を開けようとしていた。
裕次郎が現れて日活の空気が一変
「日活の空気が一変したのは昭和30年代。裕次郎という近代的な二枚目が現れてから、会社の意識も世間の見方も大きく変わった。 彼が来てから、撮影所ではどっちを向いても裕様、裕次郎様だ。今ではもう見なくなったけど、昔の映画館には次に公開する作品の予告として、10メートルからの大きな看板が掲げられていたんだ。ポーズを決めて看板に収まる裕次郎見たさに、映画館に大勢のファンが集まったもんだよ。 俺もいつかそういう看板を出してもらえるようになったらいいだろうなと思った。やっぱりすげえな、スターはいいなあって素直に憧れていたんだ」
戦後最大のスターと呼ばれた裕次郎の人気は凄まじかった
戦時中、年間30本近くまで減少していた映画は、1950年代後半から60年前後には500本以上製作された年もあり、日本はアメリカに次ぐ第二の映画大国と呼ばれた。特に戦後最大のスターと呼ばれた裕次郎の人気は凄まじく、一時期、傾きかけていた日活の経営は右肩上がりに回復し、各社で“第二の裕次郎”の発掘が始まった。看板スターの扱いが日本映画の構造そのものを変えていった。 「撮影所の連中も、裕次郎が来てから給料の遅配が無くなったと喜んでたよ。 日活はそれまでの映画とは違う現代劇の撮り方を打ち出して時代の最先端を行ったんだ。その過渡期に日活に入ることができた俺は、ある意味では運が良かったのかもしれない。裕次郎のおかげでうまいこと波に乗ることができたようなものさ」 他社から俳優や監督を引き抜こうとした日活に対抗して、松竹、東映、大映、東宝、新東宝が手を組んだのが有名な5社協定である。業界全体でスターの引き抜きや貸し出しが御法度とされたが、裕次郎の登場で他社からスカウトする必要がなくなった日活も、1958年に5社協定に参加した。 “最後の銀幕スター”小林旭が語る、石原裕次郎と過ごした“忘れられない一夜”「もう時効だから言ってしまうけど…」 へ続く
小林 旭/ノンフィクション出版