【追悼・小泉信一さん】病床で思いついた「渥美清さん」から始まる連載コラム…担当記者が振り返る“余命宣告”されても「生き抜くために書き続けた」最期の日々
デイリー新潮で連載コラム「メメント・モリな人たち」を執筆されていた朝日新聞編集委員の小泉信一さんが10月5日、亡くなりました。63歳でした。小泉さんは今年1月、ステージ4の末期がんと診断され、余命宣告を受けたことを明かし、朝日新聞で壮絶な闘病記(「患者を生きる:記者36年、余命宣告」)を連載して大きな反響を呼びました。デイリー新潮での連載タイトルにある「メメント・モリ」とは、ラテン語の格言で「死を想え」「死を恐れるな」の意味があります。自身にも迫る「死」と向き合い、最期まで書き続けました。連載の担当記者が小泉さんとの思い出を振り返ります。 【写真】やはりスタートはこの人で……渥美清さんを取り上げた記念すべき連載第1回
2回取り上げた渥美清さん
「メメント・モリな人たち」は毎週土曜日の配信だった。今年8月3日の配信で紹介したのは俳優の渥美清さん(1928~1996)。実は、渥美さんは連載の第1回でも取り上げている。後述するが、小泉さんといえば「寅さん」のイメージが強いだけでなく、筆者と小泉さんを引き合わせたのも「寅さん」がきっかけだった。ただ、8月にもう一度取り上げたのには別の理由があった。 「生き抜くために書き続ける」ことを決意した小泉さんが、同じ末期がん患者となりながらも最期まで映画「男はつらいよ」に出演し続けた渥美さんの生き様、そして死を前にした心境を、再び書いてみたいと強く熱望したからだった。そしてもう一つ。小泉さんはこう語った。 「8月4日は渥美さんの命日なんだ。その前日の配信になるし、渥美さんのお墓参りに行ってこようと思っている」 この頃はもう、連日の猛暑、いや酷暑である。小泉さんの体調が心配だったが、“現場”を何より最優先する社会部の記者魂は不滅だった。都内にある渥美さんの墓前に参った日、東京の最高気温は36・5度という炎天下だったが、 「闘病中の身には辛かったですが、いい報告ができました」 と、あとで嬉しそうな連絡があった。しかし、8月に入ると小泉さんの体調は思わしくなく、電話やメールで連絡を取るとよくこうこぼしていた。 「(体調が悪く)本当に辛い。(体の節々が)痛くてたまらない」 小泉さんも連載で触れているが、渥美さんは「男はつらいよ」シリーズ(全48作)の45作目「寅次郎の青春」(1992年)あたりから、がんによる首筋の衰えを隠すためマフラーを巻くようになった。それでも晩年の作品に出演できたのは、奇跡に近かったという。 「衣装を着て、メイクして、台詞を覚えて、そして演技まで……いや、本当によくできたと思うよ。俺なら絶対に無理だよ」 渥美さんは役者だったから、最期まで「寅さん」を演じることに徹した。だが、小泉さんは新聞記者だ。筆(パソコン)がある。文章を書いて残すことができる。 「だから何としても、これを残したいんだ。完成するまでは絶対に死ねないよ」 7月に朝日新聞に掲載した小泉さんの闘病記「患者を生きる:記者36年、余命宣告」で触れた通り、「メメント・モリな人たち」の書籍化が決まり(2025年1月刊行予定)、渥美さんの回の原稿を配信した頃には入稿作業が完了していたのである。