【追悼・小泉信一さん】病床で思いついた「渥美清さん」から始まる連載コラム…担当記者が振り返る“余命宣告”されても「生き抜くために書き続けた」最期の日々
「人間はどこで死ぬのが幸せなんだろう」
初めてお会いしたのは2008年の暮れだった。 筆者は当時、新潮社の書籍編集部に所属していた。同年10月15日から11月4日まで朝日新聞の夕刊で連載されていた「ニッポン人脈記 おーい、寅さん」を読み、これはぜひとも書籍化したいと思い、小泉さんが勤務していた支局に電話をかけて東京・錦糸町で会うことになった。 「おーい、寅さん」の連載記事は「男はつらいよ」に出演した歴代マドンナたちが「心に残る私だけの寅さん」を語る形式だった。この連載だけでなく、「男はつらいよ」に出演した俳優やスタッフなどの裏方、葛飾・柴又ほか撮影地でゆかりのある人々など、小泉さんの「寅さん」に関する記事は大変な量がある。だが、小泉さんはこう語っていた。 「渥美さんの取材を始めた時は、すでにご本人が亡くなっていて会えていない。だからとにかく関係者に取材して、渥美さんのことを知りたいと思ったんだ」 「メメント・モリ~」でも、渥美さんとゆかり深く小泉さんも何度も取材した関敬六さん(1928~2006)と佐藤蛾次郎さん(1944~2022)を取り上げている。 場所を居酒屋に移してからは色々な話で盛り上がったが、特に、お互いプロレス好きだったことですっかり意気投合した。 「実は俺、東京スポーツに入ってプロレス記者になるのが夢だったんだ」 と小泉さんは言っていたが、そのプロレスはもちろん、朝日新聞の記者としてカバーした守備範囲の広さには改めて驚かされる。群馬県・前橋支局(現・総局)を皮切りに、北海道・根室では北方領土問題を深く取材し、稚内でも走り回った。記者が知り合ってから間もなく、久しぶりに連絡がきたと思ったら「今、単身赴任で大阪にいるんだよ」。さらに、初任地の前橋に舞い戻り、横浜総局へ。赴任した先々で、その地にちなんだ何本もの企画記事を書いた。 その間、2013年からは全国紙の中でもただ一人の「大衆文化・芸能担当編集委員」として、演歌・昭和歌謡、旅芝居、色物芸、酒場、キャバレー、戦後のストリップ史、怪異伝承、UFO、テキヤ、文学、哲学、歴史など、実に多彩なジャンルを取材・執筆……。書籍編集者として、これほど貴重な書き手を放っておく手はない。 ――しかし、残念ながら、「おーい、寅さん」をはじめ、筆者が小泉さんと一緒に書籍を作ることは種々の事情で実現しなかった。 2023年3月、筆者は久しぶりに小泉さんと会食した。2010年に前立腺がんを摘出したことは聞いていたが、ここ数年、身体の調子が悪くなり、腎機能も悪化して、春に入院するという。小泉さんが凄いのはここからだ。そんな状況だからこそ「書きたいことが思いついたんだ。入院中もさらに練ってみるから」と嬉しそうに語った。「メメント・モリな人たち」の企画案である。以下、2023年5月27日配信の連載第1回から抜粋する。 《この春、私も持病の腎臓病が悪化し、ついに腎不全と診断。体内の老廃物を除去できない体になってしまい、人工透析を受けるため緊急入院。手術をした。入院生活は1カ月だったが、幸いにも脳や手足に不自由はなく、車椅子にも座らなかった。 だが、深夜病室でハッと目が覚めたとき、ふとこんなことを考えてしまった。 「人間はどこで死ぬのが幸せなんだろう」 「最善の最期って何だろう」 「死ぬなら自宅でポックリが最高だけど、無理だなあ」 病院に入院したとしても、延命のためのチューブにつながれたような「医学的治療によって生かされている」のは、果たして幸せなのか。家族に見守られつつ静かに旅立つのが人生の最高の幕の引き方ではないか。 なかなか寝付けなかったある晩、病院の近くにある新宿高層ビル群の夜景を見ていたら、四角い顔のある男が浮かんできた。否。浮かぶというより脳裏に雷鳴が鳴り響くがごとく、「お前はこの男のことを書くのが宿命だ」と天から告げられているような感じだったといえる》 第1回はこの人しかない、ということで、渥美清さん(寅さん)で連載をスタートすることになった。初めての出会いから15年、やっと仕事をご一緒できたのが嬉しかった。全国にいる小泉さんの友人知人も毎週土曜日の配信を楽しみにしてくれており、そうした皆さんの声援も本人には大きな励みになったと思う。 だが――。