「金儲けするなら日本なのに…」 文化功労者選出・青木功が“経済もツアーも絶頂期”の日本を離れた好奇心と覚悟とは?
「まだやりたいこともある。まだゴルフうまくなりてぇよ」
◆米国男子プロゴルフ ZOZOチャンピオンシップ 10月24~27日 アコーディア・ゴルフ習志野CC(千葉県) 7079ヤード・パー70 【動画】思わずほっこり… 会場にいた小さな女の子からスコアカードを受け取る松山英樹&初日のスタートで魅せた“圧巻”ティーショット これが実際の映像です
「私は私の道を行っただけ」。政府から文化功労者として25日に発表された青木功はそう言い切った。日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長職を離れ、ゴルフが大好きな一人の人間としての素顔を見せながら……。
日本を舞台にしたPGAツアーの1戦「ZOZOチャンピオンシップ」開催中のアコーディア・ゴルフ習志野CCで取材に応じた青木の口を突いて出たのは「もらえると思ってなかったし、一人でもらったもんでもない」という、正直な言葉だった。 我孫子中学時代からキャディーのアルバイトをしてゴルフに触れ、卒業後に東京都民ゴルフ場にキャディーとして就職。ゴルフの腕を磨いてプロになったのは、前回、東京五輪が開かれた昭和39(1964)年のことだった。 日本ツアーで通算51勝を挙げている一方で、海外にも積極的に挑んだ。1978年には英国でワールドマッチプレーに優勝。1980年の全米オープンでのジャック・ニクラスとの死闘(結果は2位)でその名を世界に知らしめる。1983年ハワイアンオープン(現ソニーオープンinハワイ)では、最終ホールで劇的なイーグルを奪ってPGAツアー初優勝。日本人初の優勝だった。丸山茂樹がその後に続くまで、日本人の優勝者は青木一人だった。そして今田竜二が続き、松山英樹はマスターズにも優勝する。 1992年に50歳になると、米国シニアツアー(現PGAツアーチャンピオンズ)に参戦。通算9勝を挙げている。 「我が国のトッププレーヤーとして、国内のみならず世界を舞台に活躍した功績は、日本のプロスポーツ発展に大きく貢献するものであり、その功績は誠に顕著である」という選出理由は、これらの実績に裏付けられている。 「若い頃は不真面目だったけど、(その後)真面目にやってきたのをみんなが見てくれたのかなと思う」 後進に道を開いたかのように見えるが、それについてはこう話した。 「道を開くことは考えていない。私は私の道をいっただけ。行きたいと思ったから(海外に)行った。それを目標にしてやってくる人がいるかどうかは分からない。ただ、(海外に)行くにはそれ相応の覚悟で行くこと。何をしなきゃいけないのかを考えて」とも続けた。 現在と違い、日本の経済が高度成長を遂げていた時代の海外進出だったことから、プロ仲間からこんなことも言われたと笑う。 「セベ(バレステロス)によく言われたよ。『金儲けするなら日本なのに』って。興味と好奇心があった。そういうものが評価されたということ」 本人が言うように、やりたいことをやってきた青木だが、2016年に日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長になったことで環境が激変する。試合でプレーする機会はなくなり、試合が減っていくツアーの矢面に立つことになる。プレーヤーでないから、マイペースではいられなかった。 そんな青木も、今年3月に4期8年の会長を退任したことで再びマイペースに戻ったようだ。 「まだやりたいこともある。まだゴルフうまくなりてぇよ。今、一番みじめなゴルフ。現役当時まではいかないけど、納得できるゴルフがしたい」 常に爪切りを携帯し、深爪になるくらいでないと指先の感覚がつかめないと言い続けてきたゴルファー青木。生涯、爪の先まで勝負師なのだろう。
小川淳子(ゴルフジャーナリスト)