奔放な恋に生きた歌人・和泉式部
結婚からまもなくして、二人の間には娘(小式部内侍)が誕生する。ところが、この前後から夫婦仲が疎遠になったようだ。夫の任地である和泉国にともに下ったこともあったが、999(長保元)年頃からは式部はずっと京にいたという。一説によると、任地で夫が愛人を作っていたのが発覚したことが要因らしい。これを機に、やがて式部は道貞邸を出て行った。 翌1000(長保2)年頃から、式部は冷泉天皇の第三皇子である為尊(ためたか)親王と恋仲になった。赤染衛門(あかぞめえもん)の説得もむなしく、式部は為尊親王との関係に夢中となり、夫と離別。正式に離婚したのかどうかは定かでないが、あまりに身分違いの恋にのめり込んだため、父・雅致からは勘当を受けている。 ところが、為尊親王は1002(長保4)年に、26歳の若さで亡くなった。深い悲しみに見舞われた式部だったが、為尊親王の一周忌を迎える前に、今度は親王の弟・敦道(あつみち)親王の求愛を受け、再び恋に落ちる。 1004(寛弘元)年、敦道親王は式部を自邸に引き取った。周囲からの反発を押しのける形で迎え入れたこともあり、親王の正妻が怒りのあまりに家出したとの逸話が残る。 敦道親王との熱愛騒動は世間をおおいに賑わし、式部はひどく非難されたようだ。これを面白がってか、藤原道長は「うかれ女」と評し、のちの紫式部は「歌は素晴らしいが、素行は感心できない」(『紫式部日記』)などと指摘している。 そして不幸なことに、敦道親王も1007(寛弘4)年に27歳で死去。嘆き悲しんだ式部は、その鎮魂となる歌120首以上を『和泉式部続集』に詠んだ。 2年後となる1009(寛弘6)年、道長の求めに応じ、式部は娘の小式部内侍とともに宮仕えを始めた。主人は一条天皇の中宮・藤原彰子(あきこ/しょうし)。道長の娘であった。この時に同僚となったのが、紫式部や赤染衛門、伊勢大輔らだった。彼女たちはいずれも、平安中期を代表する女流文化人として知られる。 やがて式部は道長の下で働く藤原保昌(やすまさ)と再婚。1013(長和2)年のことだった。保昌が丹後守に任じられると、夫に伴われて任地に下向。どうやら、この頃に宮仕えを辞したらしい。 奔放な恋愛遍歴で世間を騒がせ、多くの恋の歌を残した式部だったが、1025(万寿2)年、歌人として評価され始めていた娘・小式部内侍にも先立たれたのは、この上ない衝撃だった。 「などて君むなしき空に消えにけむあは雪だにもふればふるよに」 (なぜあなたは虚しい空に消えてしまったのか。淡い雪ですら消えずに残っているのに) など、子を失った悲痛な心情を詠んだ歌も数多い。 その後の消息は明らかになっていない。1027(万寿4)年に皇大后・藤原妍子(けんし/きよこ)の法事の記録を最後に、足跡が途絶えている。 式部は、紫式部と文のやり取りをしていたという(『紫式部日記』)。紫式部は彼女の作風を「口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし」(口をついて歌が自然に詠まれるようだ)と記している。式部の魅力ある歌は、理屈を超えて自然体で詠まれたとの評で、つまり、直感的に歌を詠む天才肌の歌人だったようだ。
小野 雅彦