【競輪】神山雄一郎育てたライバル吉岡稔真の存在「もうタイトルは取れないかもしれない」
輪界のレジェンド、神山雄一郎引退の知らせを聞いた日刊スポーツ競輪担当記者や経験者たちが、惜別の原稿を寄せた。 【写真】引退会見に臨む神山雄一郎 ◇ ◇ ◇ ◇ 引退を決断した神山は日本競輪学校時代、競走訓練121戦中110勝を挙げ同期を圧倒した。学業も優秀で学校設立以来の逸材と言われた。2~3年以内に特別競輪(現G1)を取ると誰もが思っていた。だが当時は「ミスター競輪」中野浩一、「怪物」滝沢正光が全盛で、ロス五輪銅の坂本勉らも立ちはだかった。G1でなかなか結果が出ず、そのうち年下にも先を越された。 最も影響を受けたのは2歳下の吉岡稔真だ。吉岡は92年3月の日本選手権を21歳の若さで制した。圧倒的なスピードを目にしても神山は「もうタイトルは取れないかもしれないと焦った時があった。でも力の世界。相手を認め、僕が後輩のつもりで挑戦し続けた」と諦めることなく、吉岡を目標にひたすらペダルを踏み続けた。神山のセールスポイントは強靱(きょうじん)な持久力。やや弱点のダッシュ力を強化し、どんな展開にも対応できる脚力をつくった。 努力は裏切らない。大きな転機は、デビュー6年目の93年7月6日、ふるさとダービー函館(現G2)決勝だったと私は思っている。断然人気の吉岡を相手に打鐘先行で逃げ切り、初めてビッグレース(新人王除く)を優勝した。「今までやってきたことが間違いではなかった。この優勝で自信が持てた。先行で勝てれば無敵になれる」と確固たる手応えをつかんだ。2カ月半後、25歳5カ月で地元宇都宮のG1オールスターで悲願を達成した。ライバルの存在が神山を一回りも二回りも大きくさせた。【88~97年、03~04年競輪担当記者・田中聖二】