自動車業界の「カリスマ」鈴木修氏が残した伝説、「生涯現役」を貫き軽自動車を育て「インド市場」を開拓
インド進出時のエピソードは伝説となっている。自動車産業を育成するためにインド政府の調査団が来日したのは1982年。この頃のインドは所得水準が低く、自動車市場はないに等しかった。他社は中堅社員が応対する中、スズキは修社長が先頭に立って交渉し、合弁相手の座を勝ち取った。 インドは日本を抜く世界3位の自動車市場に育った。最初に井戸を掘ったスズキはインド乗用車市場で約4割のシェアを握り、現地での販売台数は179万台。日本での販売台数の2.7倍に達する(2023年度実績)。
■悩まされた後継問題 カリスマであり、レジェンド。自他共に認めるワンマン経営者。故に、修氏の後継問題は長くスズキの最大の経営リスクと目されてきた。超長期政権となったのは不幸な事情もあった。 70歳となった2000年に会長に就いたが、後任社長は2代続けて健康問題が浮上。社長候補だった娘婿の通商産業省(現経済産業省)出身の小野浩孝専務は急逝した。リーマンショック後、修氏は会長との兼務で社長復帰を余儀なくされた。
2015年には社長を、その1年後には最高経営責任者(CEO)を長男である鈴木俊宏氏(現社長)に譲り、会長専任になった。だが、この時点では肩書きがどうであれ、スズキの最高実力者は修氏だった。 2016年には燃費・排出ガスの不正試験が、2018年には完成検査の不正が判明。「会長が偉すぎて物を言えない体質が強まっていったからでは」(スズキ元役員)と指摘する声もあった。 2016年の時点では、社員、役員の全員(技監1名を除く)が修氏の社長就任以降の入社。もともと近かった修氏と現場との距離が徐々に遠くなっていったとしても当然だろう。
長期政権と高齢への批判の声も少しずつ大きくなったが、おそらく筆者はその最右翼の1人だったはずだ。2016年9月のインタビューでは、「一歩引いて(俊宏)社長を前面に出してもり立てては」と何度も尋ねた。「私には40年の経験がある。(役員たちは)俺に勝て」と修氏は答えた。 冒頭の記者会見はこのインタビューの約1カ月後。「生涯現役」を標ぼうし86歳でなおチャレンジと言う修氏に、同席していたトヨタの豊田章男社長(当時)は「さすがですね」とうなり、筆者は「私が未熟でした」と兜を脱いだ。
修流のバトンタッチは正解だったように思う。2021年には会長を退任し相談役へ。当初は相談を受けていたが、健康問題もあり、徐々に経営への関与は減っていったという。カリスマ不在は日常となり、修氏が望んだ「チームスズキ」はおおむね順調に歩んでいる。 電動化や自動運転など100年に1度といわれる変革期にある自動車業界。100年のほぼ半分を経営者として駆け抜けた修氏。ゆっくり休んでください。
山田 雄大 :東洋経済 コラムニスト