バイト掛け持ち→億万長者 “15億円”を手にした前田けゑの逆転人生「血の繋がってないおばあちゃんの家に養子入り」
ある理由から30歳の時に15億円を手にし、現在は資産を20億円まで増やしたタレントの前田けゑ(42)。一体、どのようにして巨額の富を築いたのか?そして、大金を手にしたことで激変した前田の人生に迫る。 【映像】前田けゑと祖母・養母(複数カット) 世の中の人々が忙しなく働く平日の昼間。取材場所に指定されたのは都内の一等地にあるタワーマンション。2LDKの自宅に愛犬のプリンちゃんと一緒に住んでいるそうだ。 「プリンに1部屋、僕はもう寝室は取られてるんですけど、あの辺のワンちゃんのグッズ全部で100万円以上しました。ね、高かったね、きみ。でも楽しいですよ。やっぱり1人なんで」 ここは賃貸だそう。 「(家賃は)サラリーマンのお給料1か月分ぐらいだと思うんですけど、僕ちょっとそのサラリーマンの値段がわからないんで…。こういう上から下までグッチのジャケットとか。こういうの高かったと思います。全部100万ぐらいしたと思います。でも着てないですね。着ることなくないですかこれ」 平日の昼間にも関わらずプリンちゃんとじゃれあいゆったりと過ごす前田。仕事にとりかかる そぶりもない。取材開始から1時間が経ったころ、前田は身支度を始め、外出していった。ようやく仕事に向かうのかと、思いきや、エステサロンで自分磨き… 「今日はこれを90分オーダーメイドでやってその後シャワー浴びて1時間脱毛なんですよ、隣の部屋で」 悠々自適な生活を送る前田。結局この日、仕事をすることはなかった。 ーー芸能のお仕事は、今はどれぐらいの頻度でされているんですか? 「今、芸能のお仕事、僕がオファーもらうってことですか?ほぼないです。カスタネットで呼ばれることはほぼないですね。先のスケジュール全然なくて、ここに書いているのがジム、ジム、ジム、ジム、ジム、TikTok配信、TikTok配信って自分で決めているスケジュールだけです。ほんとジムとTikTokと歯医者しかないんですよ」 ーーでは、どのようにして富を得たのですか? 「元は僕が30歳の時に養子入りしたところの血の繋がってないおばあちゃんの家に養子入りしたんですけども、そこのおばあちゃんが他界して、資産15億円を相続したんです」 赤の他人だった女性の養子となったことで15億円を相続?はてなマークがまだまだ拭い去れないので、大金を手にするまでのいきさつを辿った。 1982年、大阪府で4兄妹の三男として生まれた前田。幼い頃に両親は離婚し、昼夜働きに出る母親の代わりに面倒を見てくれたのが母方の祖母だった。 「僕は結構昔からおばあちゃん子で、おばあちゃんにべったりでいつもだったので、大人になっても1ヵ月に1回会いに行こうみたいな感じでずっと会ったりしてて。おじいちゃんも大好きですけど、おばあちゃんが特に大好きで。だからおばあちゃんの言うこと、おじいちゃんの言うことは絶対だったんですよ。もう、すごく尊敬していたんで、二人の関係性。こういうおじいちゃん、おばあちゃんみたいな夫婦がいいなって。お母さんが離婚してるんで、僕の理想はおじいちゃんとおばあちゃんだったんですね。その中でも おばあちゃん好きだなと思って、ずっと一緒にいた感じですかね。」 おばあちゃんっ子だったという前田は、やがて芸能の世界への憧れを抱くようになり20歳の時に上京。しかし、なかなか日の目を見ることはなかった。 「アルバイトはカラオケと居酒屋と。施設の老人介護施設の深夜アルバイトの3つ掛け持ちとかで。結構苦しかったですね」 上京して5年が経ったある日、祖母から「紹介したい友達がいるから名古屋で食事をしよう」と誘われたそうだ。その祖母の友人こそが、のちに養母となる人だった。 「名古屋にご飯食べに行こうって言われて行ったら、知らないおばちゃんが一人いらっしゃって。『けゑくん覚えてる?』って。ちっちゃい時に大阪に遊びに来ていたおばあちゃんみたいな、そんな感じだったんで、覚えてるわけないじゃないですか。だからうんうんうんみたいな感じで適当流して。(養母の)最初の印象でやっぱり衝撃的だったのは、9割、養母がしゃべってました。多分普段、家で一人でいるから誰かと話したかったんだなっていうのが、もう喋りすぎて楽しすぎて泣いてましたもん」 「もう2回目の会食ぐらいからおばあちゃん同士で、『な?』みたいになっていて、これ怪しいなとは思っていたけど、3回目(の会食)ぐらいにはもう跡取りっていうか、墓守っていく人がおらんから、『けゑくんなってくれへんか?』みたいになってたんです」 ーーなぜ跡継ぎを求めていたんですか? 「養母が言うには、自分の代でこの家を終わらせたくないというのがあったみたいです。ここの家のご先祖様に申し訳ないという気持ちがあったみたいで、誰か継いでほしいっていうのが あったと思います」 ーーご自身の息子さんとか娘さんはいなかったんですよね。 「いなかったんです。子どもが生まれなかったみたい」 ほとんどかかわりのなかった女性からの養子縁組のお願い。突然の申し出に普通は戸惑い、悩むものだと思うが… 「おばあちゃんが『いいじゃん。入ってあげな』って言ったんで、『じゃあもう入ります』って感じだった。おばあちゃん、おじいちゃんが『これやった方がいいよ』って言ったことで、失敗したことないんですよ。やっぱりそこは信じてるんで。『やった方がいいよ』って言ったことをやらなくて、失敗したことはいっぱいあるんですよ、やっぱり 」 ーー他人の息子になるっていうことに抵抗感はありませんでしたか? 「そんなにないですね。名前、名字変わるぐらいなんで、全然僕はそれぐらいの感じだったんですよ。おもろいやん、ぐらいです。3回目やん。名前変わるのおもろいやん。ぐらいの感じです。1回目はお母さんが離婚しているんで、そこで一回名前が変わって前田に変わっていて、で、伊藤に変わるわけなんですけど、なんかポケモンみたいで面白いなみたいな。進化した、みたいな」 ーー生みの母親は我が子が養子にいくことに反対しなかったのでしょうか? 「お母さんには後での報告になってしまったんですよ。親に伝えないで他の家に行って名前が変わって帰ってきたということが悲しかったらしくて、さすがにそれはお怒りになりましたね お母さんは」 ーー何か言われたりしましたか? 「僕にというよりは僕のおばあちゃんに『これはちょっと飛び越えていないか』と。『1回私に言ってから養子縁組しないとちょっとそれは寂しすぎるぞ』っていうので、そっちで揉めていたらしいですけど、今となっては僕が跡を継いでお母さんのことも色々とやってあげられているので、結果オーライってことで」 こうして前田26歳、養母86歳。60歳差の親子関係が始まった。 「もう僕が紹介してもらったときは、脳梗塞で倒れて入院して、左手、右足の麻痺になってたんです。だからもう杖で歩けはするんですけど、ちょっと身体に障害があって、ヘルパーさんが必要な状態で、跡取りが必要だったって感じですかね。良い方で言うと自分を持った人、自分の考えが絶対の人。ちょっと悪く言うとわがままな人。そこはめちゃくちゃ性格一緒でした。もう僕もう自分の言ったことは曲げないし、おばあちゃんも自分の考えは曲げないし、お互いめっちゃわがままなんです。でも僕に対してすごく優しい」 週末は東京での芸能の仕事があったため、名古屋での暮らしは平日のみ。養母といる時は、話し相手になることがメインで、ドライブに連れていくこともあったそうだ。そんな生活を送る中で前田には、気になることが… 「(名古屋の)家大きいんですよ。200坪ぐらいあって、家も大きかったんで、そんな貧乏な家ではないっていうのはわかっていました。横に自分のマンションがあって、その家賃収入の大家さんというのをわかっていたんで、あとヘルパーさんたちもいっぱい雇っていたので、お手伝いさんも。別にお金がない家ではないっていうのは知っていました」 ーーこれがいつか自分のものになるみたいなのはなかったですか? 「いや、ないですね。だって名義が違うから。僕のじゃないっていうイメージですもんね。あと周りにたくさんいらっしゃったんで、親族というか親戚というか、自分がもらえるってあんま思わなかったですね。僕、墓守りに来た人ですから」 遺産の相続は子や孫などの直系卑属がいる場合、その人物に100%の割合が相続される。しかし、当時の前田はそのことを知らなかった。