ヤマザキマリ 旅のおみやげは「ブランド品」「高価」だから喜ばれるとは限らない。どっさりおみやげを買い込むのも結局は自分の自己満足で、受け取る側は苦笑いしているのかも
ある日、荷物の整理をしていたというマリさん。段ボールを開けてみると、プラスチックの仁王像や木彫りの熊、ピラニアの剥製などのいわゆる”おみやげ”が出てきたそうで――。(文=ヤマザキマリ、写真=山崎デルス) 【写真】お土産屋が並ぶ通り。撮影:山崎デルス * * * * * * * ◆おみやげ考 海外で引っ越しを繰り返すごとに、自分なりに潔く断捨離をしてきたつもりだった。にもかかわらず、新しい住居に到着した荷物の段ボール箱を開けてみると、思いがけないものが出てきたりする。 「京都」と刻印の入ったプラスチックの仁王像や、鮭を咥えた木彫りの熊。ピラニアの剥製。誰かにあげたか捨てたかしたはずなのにおかしいな、と首を傾げていると、夫がゴミ箱から救い出してきたのだという。 「人からもらったおみやげを簡単に捨ててはいけないよ」というのが、夫の言い分だった。確かに、仁王像のレプリカは見ただけでそれをくれた40年前の友人を思い出すし、木彫りの熊は、かつて母が「うちに置き場所がないから」と自分の家にあったのを持ってきたものだった。 いらなくなったら捨てていいわよ、と言われていたが、夫からは「こんな芸術作品を捨てるなんて」と責められた。ピラニアの剥製(というよりヒモノの飾り物)については、かつて滞在していた南米アマゾンの小さな集落で、それを売ってくれた先住民の少女の屈託ない笑顔が今でも思い浮かぶ。 自分用のおみやげではあっても、それを調達したときの記憶を蘇らせてくれることを思うと、断捨離に容赦は不要とはいえ、忍びない気持ちになってくる。
◆おみやげは受け取る側の気持ちで価値が決まる 夫は家族や友人たちからもらったさまざまなおみやげを、自分の部屋にある古いガラス製の戸棚に収納している。 そのなかでもとくに嵩張るギリシャの先史時代の甕のレプリカや、平等院鳳凰堂の模型、タイで買った木彫りの象は私が夫にあげたものである。仁王像や木彫りの熊に対してあれこれ言える筋合いはまったくない。 私は今でも旅先で友人たちにどっさりおみやげを買い込んでしまう癖があるが、そうした買い物も結局は、旅で高揚している自分の一方的な自己満足であり、受け取る側は苦笑いをしている可能性がある。 子どもの頃、演奏旅行から戻ってきた母に、熊の顔のがま口をもらったことがあった。 垢抜けないデザインだったが、普段は滅多におみやげなど買わない母が自分のためにそのがま口を選んでくれたことが嬉しくて、本当に大事に使っていた。だから、なくしてしまったときの悲しみは今でも生々しく覚えている。 母は、私がなぜそれほどそのがま口に執着するのかわからないようだったが、そもそもおみやげというのは渡す側より受け取る側の気持ちでその価値が決まる。ブランド品だから、高価だから、喜ばれるとは限らない。
◆人様に苦笑させないおみやげを選ぶのは難しい こうした自省を経て、最近はなるべくおみやげの量を減らし、食べ物や化粧品など形の残らない消耗品を選ぶことを心がけている。 しかしつい先日も、旅から戻ったスーツケースのなかからお釈迦さまの顔をかたどったずっしりと重たい木製の小物入れが出てきて、息子から「それ、どうするのさ」と冷ややかな指摘を受けた。 とっさに「もちろん自分で使うよ」と答えたが、友人にあげるつもりで調達したのが本当のところだ。 息子に水を差されて、ふと冷静になる。やはり自分には、人様に苦笑させないおみやげを選ぶのは難しい。 (撮影=山崎デルス)
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