「自由に競争できる社会=公平」と思う日本が陥る悲劇 競争しなくても目的を達成する手段はある
受験勉強はその最たるものだったし、大学院に進み、論文を書く、業績をあげるときも変わらなかった。勝つために書いていた。私の日常、私の人生は、勝ち負けに彩られていた。 ■競争とは別に「協力」という方法もある 本当にこれでよかったのか。いや、そもそも、<競争>は正義なのだろうか。 競争すれば「効率性」が高まる、という。競争がなければ非効率になり、経済も成長しない、とまことしやかに諭される。 だが、目的を達成するには、競争とは別に<協力>という方法もあることを、私たちは知っている。
協力の場では、自分の長所を活かし、他者と弱点を補いあう。考えるのは、強みの活かしかた。他者が競争の相手であれば、私たちは、苦手なことも含めて、すべてを自分で処理しないといけない。だって周りは敵なのだから。こんなに非効率的なことはない。 ギャレット・ハーディンは、誰もが自由にアクセスできる放牧地では、一人ひとりが競って牧草を消費する結果、資源が枯渇してしまう、と論じた。「共有地の悲劇」である。 共有は「ただ乗り」を生む、「非効率だ」と言わんばかりだ。でも、私には、話しあい、協力しあわないから、そんな<誤った競争>が起きるのだ、と感じられる。
Japan as No.1と呼ばれた時代、日本企業は、組織内の協力関係を重視して、国際競争を勝ちぬいてきた。バブル後の不況を経て、協力は日本企業の弱点だといわれるようになった。だが、アメリカ型の競争モデルへの転換後、日本経済は長期停滞の深みにはまっていった。 協力しなければ目的が達成されないこともある。 高い山に登るとき、私たちは、登山パーティーを作る。チームでは役割を分担し、共に苦楽を分かちあいながらゴールをめざす。もし、到達タイムを競いあい、あゆみの遅いメンバーが置き去りにされてしまえば、結局は、全員が登頂に失敗してしまうことだろう。