「自由に競争できる社会=公平」と思う日本が陥る悲劇 競争しなくても目的を達成する手段はある
野球がとことん下手だった私からすれば、投手も、打者も、野手もいずれもすばらしいプレーヤーだ。それなのに勝ち負けがつく。いつも不思議で、複雑な気持ちにおそわれてしまう。 おそらく読者には、私の話は奇妙に聞こえているだろう。だが、続けよう。 「オリンピック競技」という言葉がある。オリンピックは平和の祭典だ。近代オリンピックの父、ピエール・ド・クーベルタンの言葉を借りれば、「オリンピックで重要なのは、勝つことではなく、参加することだ」という。
技を競いあう平和の祭典。私はここにも違和感をおぼえる。そこでは、必ず、勝者と敗者が生まれる。ある人が金メダルをもらうとき、世界中で何万という敗者が生みだされ、たったひとりの勝者がそれらを踏み台として礼賛される。なんとも物騒な平和の祭典だ。 競いあい、勝ち負けを決する手段としてのスポーツ。感じる違和感。だが、正直にいうと、私自身もその発想にどっぷり浸かっていた人間のひとりだった。 ■スポーツはプレーすること自体が目的
こんなことがあった。私たち家族は、当時、アメリカに滞在しており、子どものスイミングとテニスの習いごとに毎日のように付きあっていた。ところが、思うように成績が伸びない。私と連れあいは、自分たちの才能のなさを棚にあげ、よく子どもに説教をしていた。 お酒を飲んだ私たちは、あるとき、アメリカの友人にグチをこぼした。 「ちっともうまくならないんだよね。何のためにスポーツをやってるのかわからないよ」 友人夫婦は、キョトンとした顔をしながら、こう答えた。
「スポーツはプレイすること自体が目的なんじゃないの?」 そう、スポーツは遊びではなく競争であり、競争に勝つことが子どもの「成長」だと私たちは考えていた。母はよく、「競馬で走る馬の姿が好き」といっていたが、彼女も競走馬に勝ち負けでなく、美しさを見ていたことを思いだした。悲しい気持ちになった。 振りかえると、私は、誰よりも、人と競いあって生きてきたように思う。 小学生のとき、休み時間のボール取りに負け、悔しくて友だちにかみつき、ひどく怒られたことがあった。授業では問題を誰よりも早く解き、給食の時間も誰よりも早く食べ終わろうと必死だった。部活をやめたのは、要するに、競争に負けたから逃げただけだった。