“大型左腕”として中日ドラフト2位指名…井上一樹が打者転向後も助言仰いだ「名古屋の父」重なるその後の野球人生
◇渋谷真コラム・龍の背に乗って 井上一樹物語「2」 中日・井上一樹監督(53)に、チーム再建の任が託された。決してエリート街道を歩んできたわけではない竜将の人生には、いくつかの転機があった。出会いを逃さず、運命を切り開いてきた男。その源流を4回連載で振り返る。 1989年7月26日。中日の九州地区担当スカウトだった法元英明は、東京ドームにいた。 「僕はあの試合を見てないんです。今みたいにネットで速報を見られるわけでもない。だからもう、それこそ数分おきに連絡して経過を確かめてましたわ」 当時は社会人の都市対抗野球が7月下旬に開催されていた。しかし、体は東京でも、心は鹿児島にあった。県立鴨池球場で行われていた夏の鹿児島大会決勝戦。エース・井上の鹿児島商は、のちにチームメートとなる大西崇之らがいる鹿児島商工(現樟南)と戦っていた。 あまたの名選手を発掘した名スカウトだが「九州では新米」。各球団がしのぎを削る素材の宝庫には、この年も熊本に前田智徳、福岡に新庄剛志らがいた。しかし法元がその1年前から目を付けていたのが薩摩の豪腕だった。 「のちに打者に転向したけど、僕はあくまでも投手として評価していた。左の井上が、あの年の九州では間違いなく一番やと。体は柔らかいし、大型。ただ先発完投する姿を見てなかった。投げても3イニングだったり、リリーフだったり…」 指名への最後の一押しとして確かめたかったのが完投能力。法元が何度も公衆電話に走って経過を追ったこの決勝戦は、負けはしたが井上にとって集大成のマウンドとなった。完投どころか延長15回2死。力尽きてついに決勝打を浴びるまで投げ続けたのだ。 「一樹には本格派の期待感を持っていた。素材としての破壊力があったから。肘から出てくるフォームもきれいだったし、角度もあった」 ドラフト2位指名。しかし1軍では9試合、0勝1敗、防御率6・75で井上の投手人生は幕を閉じる。それでも「名古屋の父」と慕う法元には、その後も節目ごとに助言を仰いでいる。あの春もそうだった。 「僕と一緒なんよ。ピッチャー崩れで外野手になって、コーチ、2軍監督…。ホンマによく似てる」。法元自身も左投手として入団したが、外野手として再起した。だからこそ悔しさも苦労もよくわかる。挫折ではなく転機。井上にとって運命を変える扉を開いてくれた人は、高知県で静かに暮らしていた。=敬称略
中日スポーツ