授業なく“山行き”の女学生 かみしめる命の重さ 戦後79年―語り継ぐ戦争の記憶⑥
今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は千々岩文子さん(93)=兵庫県丹波市柏原町見長=。 柏原女学校3年時に終戦を迎えた。1年時は普通にあった英語の授業は、2年時には「敵国語」として教科書を取り上げられた。戦局の悪化は、食糧難も相まって青春時代に影を落とした。 丹波市青垣町東芦田出身。女学校に入学すると、16キロ余りを自転車で通った。雪が降ると、父がバスの停留所があった氷上町沼までの3キロほどを雪かきしてくれたことがあった。佐治方面から来たバスに乗ろうとしたが、超満員で停留所を素通り。仕方なく、バスが出る佐治まで歩いたことがあった。 戦局が悪化して以降、女学校を挙げて鐘ケ坂方面の山にほぼ毎日、木を切りに行ったことが、当時の記憶を埋め尽くしている。マツなどを切り倒して3メートルほどの長さに切りそろえ、2人1組で運動場に運んだ。木炭にするため、さらに50センチほどに切った。授業があるのは雨の日だけだった。 入隊する新兵の見送りには何度も行った。「若い人が兵隊に行くのは当然、徴兵検査で不合格になるのは恥ずかしいという時代だった。『若者が兵隊に取られて大変だな』と思いもしなかった」 父は書画など骨とう品を扱う行商人だった。ある日、商品の軸物をまたぐと、ひどく叱られた。母は農業に追われ、畑を一人で守っていた。米は作っておらず、母が自身の着物と米を近所に交換しに行くこともあった。配給米は雑穀が多く、主食はサツマイモだった。菓子は木の実が主。桑の実「フナメ」もよく食べた。 記憶は判然としないが、いわゆる玉音放送は女学校の運動場で聞いた。放送後、改めて教師から「戦争に負けた」と聞かされた。「負けるなんて夢にも思わず、嘘だと思った。家に帰ると、父から敗戦したことを聞き、本当だったんだと驚いた」と語る。 女学校卒業後、教師の道に進んだ。免状を取った書道の教室を自宅で開き、今も15人以上に指導している。世界各地で武力衝突がやまない現在、警察官だった亡夫が頻繁に口にした「人の命は地球より重い」という言葉をかみしめている。「戦争は殺し合い。どうして命の大切さが分からないのか」と強く憤り、「飽食の時代にあって、今を生きる若い人に、『日本にも大変な時代があったんだ』と知ってほしい」と話している。