避難先で授かった命「希望の光、でも私は」 スーダン難民夫婦の苦悩
戦争、迫害、災害、貧困などを理由に故郷を追われる人々は世界中で絶えない。アフリカ最大の難民受け入れ国でありながら、ウクライナや中東の紛争のはざまで光の当たらないウガンダから、難民のいまを報告する。 【写真特集】スーダン難民夫婦が授かった新たな命 ◇見えぬ子育ての展望 待望の第1子は内戦が続く祖国から遠く離れた異国の地で生まれた。「この子は私たち夫婦が待ち望んだ大切な存在。それでも私は幸せではありません」。我が子の誕生を喜びつつも、貧しい避難先での子育てに展望が見えず、その表情はどこか暗く、険しい。 約13万人の難民が身を寄せるウガンダ中西部キリヤンドンゴ難民居住区。区域内にある医療施設には平屋の病棟が建ち並び、薄暗い廊下など至る所で診察待ちの人たちが列をなして座り込んでいた。妊産婦用病棟の一室は7床のベッドが並べられ、母子や家族らが集まる。ベッドが足りず、母子の何組かは床に薄いマットを敷いて横たわっていた。 生まれたばかりの男の子を抱いていたのはイスラさん(31)。傍らでは夫ムハンマドさん(32)がその様子をいとおしそうに見つめる。夫妻は祖国スーダンの内戦で自宅を失い、2023年12月、ウガンダに逃れてきた。イスラさんは「この子は苦しい状況にある私たちを勇気づけてくれる希望の光」と言う。 イスラさんとムハンマドさんは幼なじみで、22年6月に結婚。スーダン南西部の都市ニャラで、ムハンマドさんの親や兄弟家族らと一緒に暮らしていた。 スーダンでは23年4月、政府軍と、政府系の準軍事組織「即応支援部隊」(RSF)が衝突し、市民を巻き込む内戦に発展した。ムハンマドさんの自宅も屋根に穴が開く被害を受けた。 同年9月ごろ、RSFが再び攻撃してくるとのうわさが広まり、一家は学校に避難。日をおいて様子を見に戻ると一帯は破壊し尽くされ、がれきの山となっていた。ムハンマドさんは「RSFが潜伏している危険性が高くて自宅に近寄ることすらできず、貴重品も持ち出せなかった」と訴える。 身の安全を保てないと、2人は徒歩やバスなどで隣国の南スーダンに脱出。しかし、食べ物にすら事欠き、「難民が暮らすならウガンダだ」と耳にして、23年12月にウガンダ入りした。 ◇与える粉ミルクもなく イスラさんの妊娠が分かったのはキリヤンドンゴに着いて間もない24年3月。妊婦向けの健診はあったが、検査態勢が十分ではなく胎児の状態がなかなか分からず心配した。 お産の最中には、立ち会っていたムハンマドさんが医療スタッフから急いで院外から薬を買ってくるよう求められ、想定外の事態に焦った。10月23日朝、体重約2600グラムの男の子が無事生まれた。 今は母子ともに退院し、ビニールシートに覆われた木組みのテントで暮らす。入国直後は十分な食料が配られていたが、次第に減り、配給量は当初の3割ほど。それもトウモロコシの粉を練った「ポショ」と呼ばれる主食と豆ばかり。イスラさんは栄養が不足し、貧血と診断された。我が子に与える粉ミルクもなく、「十分な栄養のある母乳が出るか不安で仕方がない」と顔を曇らせる。 11月20日には泥棒に入られた。日中、外出先から戻ると、パンや食用油、太陽光発電の小型ランプなどが盗まれていたという。 一家は言葉の壁にも直面する。アラビア語を母語とするムハンマドさんは、ウガンダで広く使われる英語を話せない。スーダンでは電気工として働いてきたが、ここでは仕事に就けない。同じスーダン難民から電気工事の仕事を請け負うこともあるが、それもごく限られ、「この子に着せる服を買うお金さえない」と憂える。 男の子には「オセイド」という名前を付けた。アラビア語で勇敢さや強さを表す「小さなライオン」という意味だ。夫妻は「平和を愛しており、破壊しかない戦争は嫌いだ。この子には他者を敬い、周囲から頼られるような人に育ってほしい」と願っている。 【キリヤンドンゴで郡悠介、写真・滝川大貴】