結婚わずか数年で夫は召集。弟は鹿児島湾で戦死…戦時下で弁護士活動が困難になった『虎に翼』寅子モデル・嘉子が選んだ道とは
◆結婚と戦争 1941(昭和16)年11月、嘉子は笄町(こうがいちょう)の実家の書生だった和田芳夫と結婚して、和田嘉子となりました。 芳夫は、父貞雄の丸亀中学時代の親友の親戚という関係で、会社勤めをしながら明治大学の夜学部を卒業していました。 2人は池袋のアパートで新婚生活を始めましたが、1943年1月には長男の芳武が誕生して、笄町に戻ってきます。 厳しい生活の中にも、大きな喜びを得た時期でした。 しかし、1944年2月、笄町の家が家屋強制疎開(空襲による延焼を予防するため)の対象となり、港区高樹町に引っ越すことになりました。 1944年6月に芳夫が召集され、この時は一度召集解除となったのですが、1945年1月に再び召集されて上海へと渡りました。 この頃嘉子は、友人とともに日比谷公園に出かけ、友人の夫の無事を願うおまじないとして、炭で亀の背中にその名前を書き、公園の池に放したといいます。 誰もが不安を抱え、励ましあって生きていました。
◆戦時中、必死に生きる 芳夫の召集と同じ1944年6月には、すぐ下の弟一郎の乗った輸送船が鹿児島湾の沖で沈没し、一郎は戦死しました。 1945年3月、嘉子は幼い芳武を連れ、一郎の妻嘉根、その子の康代とともに、福島県坂下町(ばんげまち)(現在の会津坂下町)に疎開することになり、8月15日の終戦もこの地で迎えました。 食料の確保も難しく、生活環境が整わない中で、幼い子どもを守るための必死の生活でした。 その間、4月の空襲で明治女子専門学校の校舎が全焼、5月の空襲で港区高樹町の自宅が焼けて、両親は小田急線の稲田登戸駅(現在の向ヶ丘遊園駅)近くへと移りました(その頃、貞雄は台湾銀行を辞めて火薬工場を経営しており、それがこのあたりにあったのです)。 ※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
神野潔