横浜名物シウマイの崎陽軒は、なぜ「崎陽軒」なのか?
●長崎出身の第4代・横浜駅長の功績から生まれた「崎陽軒」!
―「崎陽軒」は、横浜駅長の方から始まったそうですね? 野並:4代横浜駅長の久保久行(くぼ・ひさゆき)の鉄道への功績が認められ、のちの東京駅長・高橋善一氏、大阪の構内営業者・水了軒創業者の松塚孫三郎氏の尽力もあって、明治41(1908)年に久保の妻・コトを名義人として、横浜駅の構内営業者「崎陽軒」が生まれました。この久保駅長は長崎の出身で、長崎は「太陽がのぼる岬」などと云われたことから、屋号を「崎陽軒」としました。 ―野並家は、どのようにして「崎陽軒」に関わっていったのでしょうか? 野並:久保コトが野並家の出身で、久保久行・コト夫妻のもとへ渡辺茂吉(わたなべ・もきち)が養子として入り、野並茂吉となりました。茂吉は職を転々としていたのですが、横浜で働いた経験や大阪・水了軒など鉄道構内営業の経験も買われたようです。茂吉の出身地・栃木県鹿沼市では令和3(2021)年、鹿沼商工会議所の75周年をきっかけに、シウマイによる町おこしが始まり、JR鹿沼駅前にはシウマイ像が造られています。
●2代目横浜駅誕生と共に「駅弁」の製造も
―明治の終わりごろの横浜駅は、いまの桜木町駅の場所にあって、すでに、構内営業者もいたと思いますが、「崎陽軒」最初の駅弁は何ですか? 野並:じつは崎陽軒が駅弁を売り始めたのは、大正4(1915)年のことです。それまでは牛乳やサイダー、お餅、寿司などを販売していたといいます。ちょうど2代目横浜駅(注)に移転するにあたり、「匿名組合崎陽軒」を作ったタイミングで、従来の雑貨類に加えて弁当類の販売もできるようになったそうです。弁当の詳細は記録がないのですが、上弁当(25銭)、並弁当(15銭)の2つがあったと弊社の記録には残っています。 ―– (注)2代目横浜駅と「匿名組合崎陽軒」の関係~望月の解説 2代目横浜駅は国道1号・高島町交差点付近にあった。初代横浜駅は、東海道本線の延伸に伴ってスイッチバック式が速度向上のネックとなり短絡線が作られた。短絡線上に平沼駅が設けられ特急などが停車、東洋軒が構内営業を行っていた。この平沼駅と統合して2代目横浜駅を開設するに当たり、崎陽軒・東洋軒など3社共同で匿名組合を作ることで鉄道院(当時)から構内営業権が認められ、「匿名組合崎陽軒」が生まれた。 (参考)神奈川新聞(平成17(2005)年10月28日)、崎陽軒2代社長・野並豊氏インタビューほか ―–