「まるでSNS時代の予言」…20世紀の知識人「吉本隆明」の「日本人への警鐘」が今こそ考え直されるべき「驚きの理由」
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 【写真】「まるでSNS時代の予言」…吉本隆明の「日本人への警鐘」を再考すべき理由 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。
「関係の絶対性」とその外部
かつて吉本隆明は、人間が社会を認識する上で機能する3つの幻想を提唱した。それは自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人などに対する1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)の3つで、これらは互いに独立して存在し、反発する(逆立する)とされる。 そして、今日の情報社会を観察したときその中核に存在する代表的なSNS──Facebook、X(Twitter)、Instagramなど──は、この3幻想に対応した機能の組みあわせでできている。 具体的にはプロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想である。自己幻想に拘泥するナルシストは不必要にFacebookのプロフィールの写真に凝り、少ない制限文字数に全力で抗ってたいして面白くもないジョークを盛りこもうとする。 対幻想に依存する人は、家族や恋人からのLINEの返信や、既読マークの付くタイミングを相手との関係性の確認に用いて一喜一憂しながら暮らしている。 そして共同幻想に取りこまれたゾンビたちは考える力を失い、X(Twitter)のタイムラインの潮目を読み、問題の解決でも新たな問題の設定でもなく、他のプレイヤーからのより多くの承認を獲得することだけを目的に投稿するようになる。 当然のことだがシリコンバレーの人びとが吉本を参照したなどということがあるはずもなく、彼らは人間のコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そしてそこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。その結果としていま私たちは情報技術によって吉本隆明の述べる3幻想に、より強くとらわれているのだ。 吉本の掲げたこの3幻想の源流にあるのが、「関係の絶対性」という概念だ。人間は他の人間との関係性から自由に思考することができない。したがって、ある関係(の絶対性)に対しては別の関係(の絶対性)を用いることでしか相対化することはできない。ある幻想からは、別の幻想を用いることでしか自立することはできないというのが吉本の主張だった。 半世紀前──かつての学生反乱の時代の終わりに、吉本は共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの「自立」のために、対幻想に依拠するという処方箋を提示した。 共同幻想から生じるイデオロギーの与える自己の存在に価値を与える歴史的な意味は、人間をどこまでも残酷にさせてしまう。アウシュビッツから南京、そして広島まで──20世紀とは前半の半世紀でイデオロギーによる動員が未曽有の大量殺戮をもたらした時代だ。 その生々しい記憶を父母から引き継いだはずの団塊世代たちが、既存のあらゆるものを否定した夢想的なイデオロギーを追求した結果として(つまり真正で無垢なイデオロギーが存在すると仮定し、具体的なビジョンもないままに既存のイデオロギーを批判して急進化した結果として)同じあやまちを、スケールこそ小さいがその残酷さでは引けを取らないかたちで引き起こしてしまったのが全共闘運動とその後の連合赤軍による「粛清」の代表する「内ゲバ」の連鎖だった。 そしてこの「敗北」を背景に、全共闘運動のイデオローグとしての役割を担った吉本は彼らが「革命」という共同幻想から離脱するための処方箋を提示したのだ。それは対幻想──具体的には妻を得、子を儲け、家族を守ること──に足場を置きなおすことで共同幻想から「自立」するという方法だった。 その処方箋を提示された患者たち──全共闘の若き活動家たち──はたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想からは自立した。彼らは髪を切り、ネクタイを締め、そして「妻と子供を守る」ために政治的なイデオロギーとそれを掲げる集団から離脱し、産業社会に身を投じていった。 しかし彼らの新しい依存先となった家庭、つまり戦後的核家族という場の多くが、家長が専業主婦と子供を支配する搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止して職場、つまり企業や団体のネジや歯車のような存在として共同幻想にとりこまれていったことは記憶に新しい。 「夫」や「父」であることにアイデンティティを置くことで、彼らは安心して思考停止して「社畜」になったのだ。妻を殴ることで職場での鬱憤を晴らすことや、家族の生活を守るために会社の命令に従い不正に手を染めるといった「矮小な父」たちのありふれた卑しさに、吉本の唱導した「自立」は耐えられなかった。 吉本が処方した薬物は乱用され、その結果生じた卑しさはこの国の戦後社会に今日も根強く残る封建的な価値観の延命に手を貸したのだ。