元ドラ1右腕が古巣復帰で最多勝獲得! 4球団を渡り歩き、カムバック賞、40歳まで投げた野村収【逆転野球人生】
誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。 【選手データ】野村収 プロフィール・通算成績
「大器いまだ浮上せず」
トレードは「転勤」と見つけたり。 週ベ1978年10月30日号では、複数球団を渡り歩いたある投手の記事にそう見出しをつけて報じた。辞令という白い紙一枚で転勤させられるサラリーマンのように、度重なるトレード通告にも淡々と応じた異端のジャーニーマン。まだセ・パ交流戦も存在しない時代、日本プロ野球史上初の12球団から勝ち星を記録した野村収である。 平塚農業高時代、外野からの鋭い返球がきっかけで監督に投手転向を命じられた長身の右腕は、駒大から68年のドラフト1位で大洋ホエールズへ入団。7人もの名球会入り選手を輩出した史上空前の当たり年で、同期のドラ1には山本浩二、山田久志、東尾修、星野仙一、田淵幸一らがいた。東都大学リーグで通算21勝を挙げた野村の評価は高く、週べ68年12月30日号には「東都の長身エース大洋へ 野村収に30の質問」という記事が掲載されている。音楽家の父を持ち、兄が経営するレコード屋に通い、タンゴの「青空」や「ジェラシー」を好んで聴く。「(ガールフレンドは)三、四人ぐらいですかね。みんな妹みたいな感じですよ」なんて照れ笑いする五人兄弟の末っ子。「ぼくなんかは幸せですよ、巨人と対戦できる在京球団に入れたのですからね」と憧れのON相手に投げられる喜びを語り、得意球を聞かれると「シュート。カウント稼ぎはストレートですけど、勝負ダマはシュートが多かったですね」と理路整然と答えてみせる。 鳴り物入りの即戦力右腕をセ・リーグ新人王の本命と推す声もあったが、開幕後の週べ69年7月14日号では「大器いまだ浮上せず」と二軍暮らしの野村の様子をリポートしている。結局、ルーキーイヤーは閉幕近い10月4日の巨人戦で中継ぎとしてプロ初登板。2年目は主に中継ぎとして28試合に投げて、10月のヤクルト戦に1失点完投でプロ初勝利を挙げた。3年目の71年は35試合で4勝3敗、防御率2.23。決して、悲観する数字ではない。ただ、プロ入り時にアマ屈指の実戦派と称された野村に求めるハードルは高く、期待ハズレに写ったのも事実だ。