食人の証拠か疫病の痕跡か、大量の人骨がフィジーで見つかる、19世紀の混乱の歴史に光
絡み合った戦争と食人と疫病
混乱の末、伝統的な生活を維持していた高地の部族と英国人との間で紛争が起こった。英国側はキリスト教に改宗した海岸沿いの部族やほかの白人と手を組んでいた。 今回大量の人骨が見つかった丘の上のタブニの砦は、高地部族の一派が拠点としていた場所で、海岸から内陸へ約10キロ入ったシガトカ川の湾曲部が見下ろせる戦略的な位置にあった。発掘や口承によると、1800年前後にトンガからの移民がタブニに定住し、族長の家とその他60棟ほどの建物を丘の上に建て、地元の女性と結婚したという。 1870年代初頭、キリスト教徒の王族であるカコバウ率いる初代統一フィジー政府に対するゲリラ戦で、タブニの村人たちは高地のカイコロ族に味方した。1874年、カコバウはフィジーの支配権を大英帝国に引き渡す協定に署名し、併合を祝うために船でシドニーを訪問した。 ところが、そこで王とその外交団は麻疹に感染した。島に戻ると、まったく免疫がなかった島民の間でウイルスはあっという間に広がり、約4万人が命を落とした。 この頃、英国軍とカコバウの勢力はカイコロとその同盟部族を倒すべく激しい戦いを仕掛けた。1876年の戦いでタブニに火が放たれ、反乱軍は高地に追いやられて散りぢりになった。廃墟となったタブニの砦は、やがて深い森に飲み込まれていった。
タブニ砦を偶然発見
1980年代、密林となったこの場所を地元の人々が切り開き、考古学者たちは数十棟の家の土台と急な斜面を取り囲む防御壁の跡を発見した。現在ここは地元の部族から政府に貸し出され、国立歴史文化財として観光客に開放されている。 2024年2月、地元の部族の長が亡くなり、村人たちはその遺体をタブニの最も高い場所に葬ることにした。ところが、墓穴を掘っていたときに、大量の人骨が出てきた。 「掘っても掘っても、人の骨が出てきました。一人の墓でないことは明らかです。骨は全てごちゃごちゃに埋まっていました」。この森を切り開いた地元民の一人で、現在は文化財の管理人をしているラニエタ・ラウラウ氏は、そう話す。 歴史的な場所に墓を掘るという村人の決定に反対していたラウラウ氏だが、出てきた骨の一部を科学分析のために保存するよう交渉した。残りの骨は再び埋葬された。 3月に訪れたとき、ラウラウ氏は観光センターの事務所から透明のビニール袋を出してきて、外のピクニックテーブルに見つかった骨を丁寧に並べた。人間の頭蓋、歯がそろった顎骨、そしていくつもの腕や足の骨があった。 フィジー博物館の上級考古学者エリア・ナコロ氏によると、フィジーではこのような集団墓地が2カ所でしか発見されていないという。どちらも丘の砦に近い場所にあり、発見された遺骨は分析されないまま再び埋葬された。 一部の骨は、墓ではなく集落を取り囲むように置かれていた。集落に近づこうとする侵略者を追い払うための風習だったと、ナコロ氏は言う。