日本軍首脳部の思惑違いが生んだ悲劇!ミッドウェー海戦はどうして決行されたのか!?
開戦前、誰もが予測しなかった空母機動部隊の大活躍。まさしく無敵の存在と言ってよいほど、アメリカやイギリスの艦艇を撃沈。それは大きな自信となったと同時に「英米恐れるに足らず」という慢心を生み出してしまう。 前回、日本海軍がミッドウェー島攻略と、米空母機動部隊殲滅という目標を掲げ、未曾有の大作戦に踏み切ったことについて、ごく簡単に触れている。“簡単に”というのも『写真週報』では、ミッドウェー作戦についての記述は見当たらないからである。代わりに、ミッドウェー作戦と並行して行われた、アリューシャン西部諸島攻略については、3回に渡って紹介。そこで今回は、日本海軍にとって大きな転換点となったミッドウェー海戦に至る経緯を、少し詳しく触れておきたい。 開戦当初から、海軍の作戦を主導してきた山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官は、真珠湾で米空母を撃ち漏らしたことで、米機動部隊の反撃を警戒していた。実際アメリカ軍は、昭和17年(1942)の2月1日、ギルバート諸島とマーシャル諸島の日本軍に対して、使用可能な空母を使ってヒット&アウェイ方式の航空攻撃を行っている。 これを受け山本長官は、連合艦隊独自の構想であったハワイ攻略に備えるために、ミッドウェー島を攻略し、迎撃に出てきた米機動部隊を一挙に叩く作戦を提案。だがこの作戦は、陸海軍が合意したアメリカとオーストラリアを分断する目的の、FS作戦(フィジー、サモア諸島の攻略)と対立する。 山本長官はつねづね「米豪交通遮断程度では手ぬるい」と考えていた。彼の構想は「劣勢な日本海軍が米海軍に対し優位に立つには、奇襲による積極的な作戦を行い、その後も攻勢を維持し続け、相手の戦意を喪失させるしかない」というものであった。反対する軍令部に、山本長官は「受け入れられなければ連合艦隊司令長官を辞任する」という、奥の手を持ち出し、4月5日に納得させた。 まさにタイミングを測ったかのように4月18日、16機のアメリカ陸軍B-25B爆撃機による日本本土初空襲が起きたのである。狙われたのは東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸といった主要都市で、いずれも被害はごく僅か。だが連合艦隊首脳部は冷や水を浴びせかけられた気分であった。 この爆撃機は空母ホーネットに搭載され、東京から約1200km東方の海上まで進出。そこで日本各地に向け発進した。空母はすぐさま反転帰港し、爆撃機は空襲後、中国やソビエト領内へと向かっている。この空襲は山本長官だけでなく連合艦隊首脳部に、米空母部隊を完全に殲滅しておく必要性を痛感させた。そこでミッドウェー攻略作戦が、俄然重要視されるようになる。 前回も触れた通り、山本長官ら首脳部はミッドウェー島を攻略すれば、必ず米空母機動部隊がやって来る。それを一気に撃滅する、という思惑を抱いていた。しかし機動部隊を預かる南雲(なぐも)司令官は、あくまで「ミッドウェーおよびアリューシャン諸島西部要地を攻略」という、当初の命令遵守を考えていた。 連合艦隊首脳の考えは、まさしく「二兎を追う」もので、しかも現場への指示が徹底していなかった。これでは戦う前から勝敗は決まっていたと言ってもいいだろう。 一方のアメリカ軍は、新たにレイモンド・スプルーアンス少将が司令官に着任。日本の空母部隊に決戦を挑む、という目的だけを掲げていた。その目的は、末端の兵士まで十分に理解していたのである。こうして運命の6月5日を迎えた。結果は、日本海軍の惨敗、開戦以来活躍していた空母4隻を、一気に失ってしまったのである。
野田 伊豆守