大韓民国は今も建国中【寄稿】
大韓民国という国は一つの固定不変な実体ではない。確かに、親日、冷戦、反共、親資本主義的な生い立ちを持ち、そのために私のような左派にとってはいつまでも不満に感じられるわけだが、その内部には植民地の民族解放闘争の歴史と解放直後の様々な国作りの思いが体現化されており、4・19(4月革命)、5・18(光州民主化運動)、6月抗争という民主化抗争と、驚くべき経済成長という否定できない歴史的成果によって、躍動的に形成された「開かれた実体」だと言える。 キム・ミョンイン|文芸評論家・仁荷大学名誉教授
大韓民国の大統領室における国家安全保障分野の実質的責任者といえる人物が、大統領の外遊中の公式行事で、愛国歌が演奏されているにもかかわらず、胸に手を当てる敬礼をしなかった動画を見た。彼は現政権の韓米日3カ国同盟体制の設計者ともいえ、以前「重要なのは日本の気持ち」という言葉で物議を醸したことがある、まさにその人物だ。単なるミスだったのだろうか。偏見かもしれないが、私にははっきりと意識的な拒否行為にみえた。私もそのような気持ちをよく知っているからこそ言える言葉だ。 今は昔話になったが、朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権末期には、夕方ごろには国旗降下式というものを行っていた。そのとき全ての街頭では、愛国歌とともに「私は誇らしい太極旗の前に」で始まる国旗に対する誓いの朗読がはじまると、道行く人々は近くの国旗掲揚台に向かって立ち止まり、胸に手を当てる「愛国的実践」をしなければならなかった。そのころ、私はそれを無視して道を歩いていくことで、そのような強要された集団的愛国行為を拒否した。私の拒否行為は、その強制性のためだけではなかった。私は当時、「大韓民国」自体が嫌いだった。1948年、米軍政の支配下で正統性が希薄な李承晩(イ・スンマン)一派によって朝鮮半島の半分だけで樹立され、戦争と分断を経て、外勢依存的な長期独裁体制で一貫してきたその国が自分の国だということを受け入れられなかった。 単なる憶測かもしれないが、その高官の内面にも似たような心理的メカニズムが存在しているような気がする。一部で言われているような、彼の心の祖国は日本で骨の髄まで親日派であるとか、さらには、大韓民国の権力の中枢で暗躍する「密偵」だとかの話を信じているからではない。彼はもしかしたら、今でも「反日種族主義」と左派的歴史認識のヘゲモニーに強くとらわれている韓国、それで1948年ではなく1919年を建国元年として固執している現在の情けない「大韓民国」体制を受け入れることができず、そのような目的意識的な儀礼拒否を実践したのかもしれない。でなければ、彼はもしかしたら無政府主義者なのだろうか。そうなのかもしれない。とにかく彼は、徹頭徹尾自分の思想的原則を実践している確信型知識人であるため、彼の行動は単なるミスにはみえない。 問題は、このような現権力の中枢にいる人たちの突出した言動が、もはや例外的ではないというところにある。私たちは最近、労働部長官、放送通信委員長、独立記念館長など大小の国家の要職に任命された高官たちが、人事聴聞会の場で自分たちの非正統的な歴史意識を露骨に、堂々と表明するのを何度も目撃している。今や「クァンジョン(人の注目を集めるため極端な行動をする人)極右派」たちの世の中だ。笑って流せることではない。こうしたことが繰り返されることで、これまで非主流の境遇から抜け出せずにいたいわゆるニューライト歴史観が、目下一つの競争力のある観点として徐々に公論の一角を占めつつある。これまでの韓国現代史の解釈をめぐる「歴史戦争」ではゲリラ戦を展開してきたニューライト勢力が、いよいよ本格的な戦いの土台を設けたとでも言おうか。これは逆に、これまでの韓国現代史に対する主流的解釈も、同じく一つの流動的な仮説として漂流するようになったことを意味するのかもしれない。 これははたして、史上最悪の政権下で起きている、非主流派の一時的な“虎の威を借る狐”現象に過ぎないのだろうか。私はそれほど簡単な問題だとは考えていない。このニューライト歴史解釈で最も熱いテーマである「1948年建国説」の一つをとってもそうだ。私も大韓民国は1948年に建国されたとみる立場だ。しかし、1910~1948年の朝鮮半島の歴史の現実を国のない未定型状態と規定し、植民地社会の性格や親日問題などを中立化し、植民地解放後に起きた様々なスペクトルの建国論を一蹴してしまおうと考えるニューライトの「1948年建国論」の隠れた本音を知らずに言うのではない。実際に1919年建国論に内在する問題点を見ぬふりはできないからだ。1919年の3・1運動後、亡命地の中国で大韓民国臨時政府が樹立されたが、それは領土も住民も統治行為もなく、象徴的な国体だけが存在する臨時国家であり、解放直後も大韓民国臨時政府はその正統性と正当性を十分に与えられないまま、一つの「政派」と認識されたという点を否定できない。たとえ、大韓民国憲法が臨時政府の法統を継承するといっても、それは1919年が大韓民国の建国の元年であることを自動的に保証するわけではない。 「1919年」対「1948年」の建国起点論争は誤った問題設定だ。問題の真の核心は、1948年に制定された大韓民国憲法にある1919年臨時政府の法統継承条項の実効性をめぐる衝突だ。1919年法統説を認めるかどうかは、すなわち植民地時代の日帝の総督府統治を非正常状態とみるのか、それとも正常状態とみるのかという判断の基準になる。ニューライトがこの法統継承説を否定するということは、すなわち植民地状態の無政府性を浮き彫りにし、日帝の植民地統治を正常化、合理化することである。まさにこのために、ニューライトの歴史認識は受け入れられてはならないのだ。 大韓民国という国は一つの固定不変な実体ではない。確かに、親日、冷戦、反共、親資本主義的な生い立ちを持ち、そのために私のような左派にとってはいつまでも不満に感じられるわけだが、その内部には植民地の民族解放闘争の歴史と解放直後の様々な国作りの思いが体現化されており、4・19(4月革命)、5・18(光州民主化運動)、6月抗争という民主化抗争と、驚くべき経済成長という否定できない歴史的成果によって、躍動的に形成された「開かれた実体」だと言える。 大韓民国という国を愛するのであれば、それは私がこのような躍動的な歴史過程のひとつの主体として参加し、今後も参加し続けるという自負のためだ。それこそが、大韓民国の歴史を日本帝国主義と反共・冷戦勢力、軍部独裁勢力、外勢依存勢力、資本家勢力などの支配者の歴史だけで書き直そうとするニューライトの逆説的で奴隷的な歴史認識に同意できない理由だ。もちろん私は、排他的民族主義と国粋主義が混ぜ合わさった歴史認識にも同意しない。しかし、このような多様な歴史認識を、大韓民国という国の躍動性を構成する一部として肯定することはできる。歴史戦争がさらに必要なのか、いいことであり、いくらでも可能であり、すべきだと思う。大韓民国の建国は今も未完成だと考えるからだ。 キム・ミョンイン|文芸評論家・仁荷大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )