浅田 彰「私が見てきた昭和――熱い60年代、冷めた70年代、そしてニューアカブーム」
「戦後ではない」の翌年に生まれて
昭和100年の特集に合わせてふだんは使わない元号でいえば、僕は昭和32年の生まれで、64年までの昭和の後半を生きたことになります。 「経済白書」が序文に「もはや戦後ではない」と記したのが昭和31年ですが、その翌年に生まれ、昭和43年まで愛媛県松山市で過ごした僕の少年期は、まぎれもなく「戦後」そのものでした。風呂は焚き木で沸かし、トイレは汲み取り式でバキュームカーがし尿回収に回ってくる。冷蔵庫もはじめは上段に氷を入れて冷やす木製の箱で、途中から家庭電化製品が急速に普及した。現代の日本人の目には「なんと野蛮な未開社会か」と映るでしょうが、裏を返せば1960年代以降の近代化が急激だったということでもあります。 僕は一人っ子ですが、母の7人の兄弟姉妹のうち兄2人が戦死し、子どもたちに期待をかけていた祖父は落胆のあまり事業に失敗して没落してしまったんですね。だから親族が集まると必ず戦争の話になり、勝算のない戦争に突入していった軍部への抑えようのない怒りと、それをどうすることもできなかった自分たちへの絶望が吐露された。間接的とはいえ、昭和の戦前・戦中期を体感しながら育った少年期でした。
昭和と令和、二つの万博
父方の伯父に、浅田孝という人がいます。彼は東京帝国大学工学部建築学科で学び、1943年に海軍に入隊、広島県呉市の基地に技術士官として配属され、掩体壕(えんたいごう/敵機の攻撃から軍用機を守るための格納施設)の設計などをしていた。広島に原爆が投下されたあと、おそらく最も早く入市(にゅうし)した救援隊の一人です。 その経験から無力感に襲われ、敗戦から1年ほどはほとんど何もせずに過ごしたそうですが、そのあと東大大学院の丹下健三研究室に復帰し、1970年代まで丹下の右腕のような役割を演ずることになりました。とくに重要なのは55年に中央の陳列館ができた広島平和記念公園で、丹下や伯父にとって、欧米の近代建築や近代都市計画を再導入することが、戦後日本を民主的平和国家として立て直すことと一体だったことがわかる。それは64年東京オリンピックの会場となった国立代々木競技場や、70年大阪万博のお祭り広場の大屋根などに続いていくことになります。 ただ、ませた子どもだった僕は、彼らには憧れと同時に反感も抱いていた。とくに、70年大阪万博は、72年の田中角栄著『日本列島改造論』に至る開発主義の徒花(あだばな)にも見えました。とはいえ、万博はやはり面白そうではあったので、2回見に行っています。 アメリカ館の「月の石」が5時間待ちだったりと、メインのパビリオン(展示館)はとても見る気になれなかった。むしろ、これは5年年上で2023年に亡くなった坂本龍一さんとも共通する体験ですが、日本鉄鋼連盟の「鉄鋼館」のスペース・シアターには刺激を受けました。ル・コルビュジエの弟子であり丹下の師匠でもある前川國男が恒久的な利用を目指して設計したこの建物では、作曲家の武満徹が音楽、画家の宇佐美圭司が映像のディレクターになって、1000個以上のスピーカーを吊した円形劇場に電子音楽が鳴り響き、レーザー光線のショーがそれを彩った。その電子音楽は、武満のほか、イアニス・クセナキスや高橋悠治など、当時の前衛音楽の最先端といえるメンバーによるものでした。よくこんな過激な実験ができたと思いますが、ドイツ館も前衛音楽の旗手カールハインツ・シュトックハウゼンの電子音楽が主だったので、科学技術の先端とともに芸術の先端を見せたいという意図がかなり広く共有されていたんですね。 あとから知ったことですが、当時丹下の傍らで世界の前衛建築を徹底的にサーベイしていたのが、22年に亡くなった磯崎新(あらた)さんで、「建築は情報環境に解体されるべきだ」という方向に丹下のお祭り広場案を導いた。重厚なファサード(建物の正面)などの「形」にはもはや意味がなく、情報が集積・交換・発信されるグリッド(格子)さえあればいいというわけですね。1977年にパリの中心部に完成した、建築家レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースによるポンピドゥー・センターは、配管さえも隠されずむき出しになった、いわば情報のコンビナートのような建築物ですが、丹下組の大屋根はそのポンピドゥー・センターを先取りしていたともいえます。