厚労省が日本国内の認知症患者が700万人に達すると予測「認知症の人には、言葉以外はすべてある」と脳科学者は言うが…我々はどのように向き合うべきなのか
人権と科学的根拠
認知症がもたらすディスコミュニケーションの有様を、あたかも脳性麻痺のように捉える恩蔵の人間観を「非科学的だ」と切り捨てることは難しくないだろう【7】。 だが「科学的根拠に基づかない人間観」を即座に間違ったものとみなすのであれば、「ひとりひとりの人間が基本的人権を有する」という理屈もまた間違っているということになってしまうのではないか。天賦人権説には、科学的根拠など存在しない。 ようするに、近代社会の根柢を支えているのは一種の「道徳的人間観」なのである。 なぜ、恩蔵は目に見える行動や言葉ではなく、目に見えず、聞こえないもの、あるいは見えたもの、聞こえたものとは異なる意味を「じつは内面は保持している」と信じることを止めないのか。それは彼女(や信友)が、母親を愛し続けたいからだ。 恩蔵が重ね重ね強調する「その人らしさ」とは、すなわち「主体性」である。自分自身の判断で、自らの意思を行動に移し、その結果の責任を負う。主体性は、一般的にはそのように捉えられているが、恩蔵は「判断(意思)」と「行動(結果)」を切り離して受け取ることの重要性を説いている。 つまり、「表現すること」それ自体が大切なので、その「失敗」の責任を直接本人に負わせるのは誤りだというのが、彼女の主張の本質なのである。失敗によって生じる損失ないし負担は、余力のある者(家族や社会)が解消すればよい【8】。 この思想は、恩蔵や信友のような介護者だけではなく、認知症の当事者たちの求めにもぴたりと重なる。
社会的弱者とは誰か
たとえば、若年性アルツハイマーの当事者であることを公表している丹野智文は、著書『認知症の私から見える社会』の冒頭で、自身が考える「正しさ」を説いている【9】。 〈「正解」か「間違い」かで判断するのではなく、みなさんが関わる認知症の人たちが「幸せと感じているか」を振り返っていただきたい(…)喋れない人の話は、誰かが代弁したら良いし、道具を使えない人には使えるようにサポートしたら良いのです〉【10】 丹野の言い分はよく理解できる。認知症の当事者たちが主体性を発揮し、幸せを感じることができるような手厚い支援体制が整った社会は理想的だろう。だが、それは認知症の者たちだけに限った話なのだろうか。恩蔵と信友のやり取りから浮かび上がる社会変革の要件は、特定の病を患う者ではなく、すべての社会的弱者の包摂を要請するはずだ。