厚労省が日本国内の認知症患者が700万人に達すると予測「認知症の人には、言葉以外はすべてある」と脳科学者は言うが…我々はどのように向き合うべきなのか
労働生産性が低い者
評者は先に、恩蔵と信友が同じ主題に挑んだと書いたが、これは「母親が認知症になった」という共通点を指しているのではない。上っ面の表現を採るなら、ふたりは「人が、如何にして他者を受け入れ得るか」を自らの経験として実践し、思索したと言うことができる。 では、嫌われる言い方に書き換えるとどうか。彼女らが思い悩み、ついに突破するに至った共通の障壁とは何だったのか。それは「労働生産性が低い者を、我々はいかにして包摂し得るか」という問いである。 たとえば、母親に認知症の兆候を認めた恩蔵は、科学的事実を告げられることを怖れるあまり、1年近くも専門医に診せることができず、ただ泣き暮らしていた。 このままでは〈母が母でなくなってしまうかもしれない〉【6】と、思いあぐねた恩蔵は懊悩の末、ひとつの信念に殉ずる覚悟を決める。 〈私はアルツハイマー型認知症の人に関しては、言葉以外のものは全部あると思っています。言葉にするのが苦手になるだけ(…)言葉でうまく言えないだけで、認知症のある人も健康な人と同じようにすごく複雑な感情を持っていると思うんです〉【6】 それでも彼女は、脳科学者として「科学」と「自らの思い」に一線を引くことは忘れない。〈アルツハイマー型認知症の人に関しては、言葉以外のものは全部ある〉も〈認知症のある人も健康な人と同じように複雑な感情を持っている〉も、現時点では科学的事実と断定はできないので、末尾には必ず〈思う〉と付け足している。
「明晰な瞬間」の驚きと歓喜
しかし、実際に身の回りに認知症を患う者がいる人の中には、恩蔵の信念を経験則として確信する向きもあるだろう。評者もそのうちのひとりだ。およそ柔和な表情というものが消え失せ、言葉を失い、湯飲みの上げ下げすら叶わなくなった者が、久方ぶりに会った友人に対して、その友人のためだけの言葉を口にした後、涙を流す。 ラシッド・モーメント(明晰な瞬間)の驚きと歓喜は、目の当たりにした者の胸中に深く染み入る。 知性も感情も十全に保持されているにもかかわらず、外部に向かって「表現することだけができない」という状態を、誰にでも分かりやすく形容するとしたら、ジョーダン・ピール監督の映画『ゲットアウト』における呪術(催眠術+手術)の描写が適当かもしれない。 この映画における呪術は、マトリョーシカのような「心身二元論」として表現される。肉体としての「自分」の内側に、精神としての「自分」が入れ子になっているわけである。呪術をかけられる以前には、「内側の自分」と「外部から見える、肉体としての自分」はシンクロしているが、呪術によってその連携は断たれてしまう。 内側にいる「本当の自分」は生きており、動いている。しかし、その意思や動作や感情は外側のマトリョーシカには反映されない。