なぜ現代人は「死」を意識しなくなったのか? 医学、哲学、葬儀、墓、遺品整理、霊柩車、死刑制度…28人の専門家が語る死への「正しい接し方」
死の消化と昇華
死とは何かという概念的理解に加えて、我々現代人がしばしば悩むのは、身近な人々の死を如何に受け入れ、乗り越えていくのかという論点である。私はこの困難の克服に関して、韻を踏みつつ「死の消化と昇華」という言葉でしばしば表している。 これは日常から死が隠されてしまっている現代では非常に大きな課題であり、死に纏わる悲しみを抱えたまま生きていく辛さは、なかなか周囲に吐露しにくいという心痛はよく聞く。 日本の防災教育は、「死んだらいけない」という面からは熱心に教えているが、「死に遭遇した場合に、どうすればよいのか?」という観点からはほとんど何も言及されていない。これは大きな問題で、「死を良くないもの」と潜在的に感じさせてしまう可能性があり、日常的な話題にしにくくなる。 その中で社会は復興に向けて動き始めるので、遺族の気持ちは置き去りにされがちになる。こうした事態に備えるべく自分自身、そして周囲が悲嘆に暮れた際に、回復の糸口をどこに見出せばよいのかという意味から、坂口幸弘「死別後の悲嘆とグリーフケア」は、一読の価値があろう。 また山田慎也「日本における葬儀の歴史」においては、近年の葬儀の簡略化が、死者と向き合う時間を少なくしてしまい、それゆえに遺族が悲しみから抜け出せなくなるという状況に警鐘を鳴らしている。 さらに死の受容に関しては、遺品が大きな意義を有していることに気づかせてくれる横尾将臣「遺品整理の現場から見る孤独死」も心に刺さる。普段疎遠であった親族が、遺品を通じて過去を思い出し、故人を偲ぶ様子は、インフォーマルな悲しみの共有のあり方として考えさせられた。
弔いに関する観念と「死」の国際化
さて本書を通読してみると、死や弔いに関する観念が、1000年以上前からあまり変わっていないところもあれば、数十年で大きく変わってしまった面もあることに気づく。今後の社会における死を考えるうえで避けて通れないのは、国際化の観点であろう。 私は観光学を専門にしているため、海外調査に行くことがよくあるが、何度かかなり危ない目にあった。ここで死んだらどうなるのかという思いも頭をよぎったことがあるが、実際に実務上どうなるかは木村利惠「国際霊柩送還という仕事」に詳しく述べられている。 この話は、佐々涼子原作のドラマ「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」としてご覧になった方も多いと思うが、本書では社長自身の言葉としてこの仕事の意義や重要性が語られており、筆者としては大きな関心を寄せることになった。 当然日本で亡くなって、海外に帰られる方もいるわけで、様々な国の文化に精通していないと成り立たない仕事であることに気付く。 また死に対する国ごとの文化的な捉え方の差は法制度にも現れており、永田憲史「死刑制度を知る」では、ヨーロッパでは廃止された死刑が、日本でなぜ残っているのかという問いに関して、法学者としての立場から説明を与えている。 本書を通読して感慨深いのは、全く専門分野の違う人々が、死はもちろんのこと、葬儀・墓・遺体などについて、各自の専門分野から論じている点であろう。医者が考える死と哲学者が認識する死は、一見異なるように見えるのだが、そこには生命をどのように捉えるかという厳粛さにおいて、共通する場面や部分も出てくる。 収められた28本の論考に対峙すると、読者はその広がる世界の広さと深さにおののき、目眩に似た感情を覚えるかもしれない。本書にはあえて、前書きや後書きと言った総論部分が置かれていないのであるが、これはどこから読んでも構わないということも意味している。本稿を、書籍『死を考える』の糸口にしていただければ幸甚である。 文/井出明 写真/shutterstock
---------- 井出明(いであきら) 京都大学経済学部卒。京都大学大学院で博士号(情報学)を取得。近畿大助教授、首都大学東京准教授、ハーバード大客員研究員などを歴任。日本に「ダークツーリズム」の考え方を先駆的に紹介した。著書に「ダークツーリズム悲しみの記憶を巡る旅」(幻冬舎新書)、「ダークツーリズム拡張 近代の再構築」(美術出版社)、「悲劇の世界遺産ダークツーリズムから見た世界」(文春新書)など> ----------
井出明