【特集】津山城をどう活かす 歴史と文化を紡ぎ 地域の希望そのものに/岡山・津山市
美作国の要として時代を越えてきた津山城は、文化財としての重みと市民の憩いの場としての親しみやすさを併せ持ち、復元された備中櫓や約1000本の桜が咲き誇る姿は、観光地としても重要な役割を果たしている。一方で、豪雨による石垣崩落や自然災害への対応など、保存と整備には予期せぬ多くの課題が立ちはだかる。 【写真】熊本城の見学通路からの眺め(提供:熊本城総合事務所)
津山城は1441年(嘉吉元年)、美作国守護の山名教清が一族の山名忠政に命じて築かせた鶴山城にさかのぼる。この時、築かれた城は、山名氏の勢力衰退に伴い廃城となった。
その後、関ヶ原の戦いで功績を挙げた森忠政が美作国全域を支配することになり、この場所を居城に定め、翌1604年(慶長9年)に築城を開始。この際、城名を鶴山城から津山城へと改めた。
築城には約12年を要したとされるが完成までに長い年月がかかった理由として、築城の名手として名高かった森忠政が徳川幕府の命令により各地の築城を支援していたことが挙げられる。1873年(明治6年)の廃城令により建造物は取り壊されたが、2005年(平成17年)には備中櫓が復元され、地域の歴史と文化を象徴する存在として残り続けている。
現在、津山城は国指定史跡の価値を持つ一方で、「鶴山公園」として市民の憩いの場でもある。城を覆いつくすように桜が咲き誇る春には、毎年10万人を超える来園者が訪れる桜の名所として、岡山を代表する観光地の一つとなっている。さらに、地元の学校教育でも遠足や郷土史の学びの場として利用され、地域のアイデンティティを支える重要な役割を果たしている。
津山城は「文化財」と「公園」という二面性を持ち、管理は容易ではない。津山市では都市基盤整備課と文化課が連携して維持管理を行っており、史跡津山城整備保存計画の第2期(2016年~2027年)で、虎口通路整備、石垣整備、既存樹木整備、既設占有物の撤去、建設物の復元が進行中。
しかし、計画外の自然災害による整備は常に存在する。2018年に厩堀(うまやぼり)が崩壊した際には、事前に3D計測データがあったことで復旧を迅速に進めることができたが、2024年7月の豪雨による長柄櫓(ながえやぐら)石垣の崩落では、復旧には少なくとも5年を要する見込み。