「アイミタガイ」を見て佐々部清監督を思い 「半落ち」に静かで深い愛を感じた
寺尾聰さん演じる妻を殺した警部・梶聡一郎が自首するところから物語は始まる。妻はアルツハイマー病を患っており、彼女に懇願され殺したというのだ。しかし、犯行後自首までの空白の2日間について彼は何も語ろうとしない。日本警察の根幹を揺るがす大事件と世間で騒がれるなか、混乱する警察内部や報道するマスコミ関係者の心情をたどりながら、事件の謎は思わぬ方向へ解き明かされていく……。 2004年公開の作品。もう20年前だ。かなり話題になっていたという事実だけおぼろげに記憶しているが、当時小学生だったこともあり、劇場に足を運ぶことはなく、未鑑賞だった。しかし、公開中の映画「アイミタガイ」を見て、この作品は当初「半落ち」の佐々部清が監督をつとめる予定だったということを知り(急逝により代わりに草野翔吾監督がメガホンをとった)初めて鑑賞した。
人が物語を紡ぐ
なるほど、「アイミタガイ」でもひとりひとりの人生が丁寧に描かれていたが、この「妻殺しの警部」というセンセーショナルなテーマにおいても、物語があって人がいるのではなく、人が物語を紡いでいる作品だと感じた。 自首した梶本人は冷静沈着で、一貫して凜(りん)とした表情をしている。対照的に彼を取り巻く人たちはそれぞれの感情をむき出し、あるいはにじみ出させ、とても人間臭い。例えば警察官も、家に帰れば夫であり、父であり、それぞれが普段は語ることのない個人的な問題も抱えているということを感じさせてくれる。警察官たちは梶警部に対して尊敬の意を忘れず真摯(しんし)に向き合っているように見えた。加害者であるはずの彼がなぜか神々しく見えてしまうほどだ。それは映っていない彼の警察人生がいかにまっとうであったのかを示唆している。
愛でしか昇華できない
仏教で「悪人正機」という考えかたがある。自分が「悪人」だと自覚した者こそ阿弥陀仏(あみだぶつ)の救済の対象となるのだという浄土真宗・親鸞の教えだ。私は仏教系の高校に通っていた経緯もあり、個人的に好きな言葉である。もちろん、命を奪ってしまった以上、手をかけた者が救われることはない。救われるべきではないのだが……。私は、梶警部とその周りのさまざまな人々の挙動を見ていて胸が締め付けられるような切なさを感じ、最後の最後まで、彼には報われてほしいと切実に願ってしまった。 そしてそんな気持ちを救ってくれたのはエンディングの森山直太朗さんの「声」という曲だ。この名曲にはどこかすべての出来事を包み込むような大きな愛を感じ、聴いた途端涙腺が崩壊した。この物語は法ではなく愛でしか昇華できない。悪人と自覚した彼の人生が愛に包まれたものとなってゆきますように……。20年前に映画館で作品を見た人たちもきっとそんな祈りのような気持ちを抱いたのではなかろうか。