関根潤三に請われヤクルトのコーチとなった安藤統男は、選手たちに激高「おまえらそれでもプロか!」
それでも、超一流選手の技術を目の当たりにすることで池山、広沢にも大いに刺激となった。スワローズ退団後に出版されたホーナーの自著『地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった』(日之出出版)は、日本球界を痛烈に批判する暴露本として話題になったが、それでも池山については、「近い将来、日本を代表するようなバッターになるだろう」と予言し、広沢についても、「野球への情熱がすばらしい」と絶賛している。超一流の助っ人外国人がもたらす効果について安藤が解説する。 「関根さんが監督を務めた3年間は、87年のホーナーに始まり、88年の(ダグ・)デシンセイ、89年にホームラン王を獲得した(ラリー・)パリッシュと大物外国人を獲得しました。もちろん、関根さんひとりの意向で決まったわけではないけれど、彼らの存在がイケトラに大きな影響を与えたのは間違いありませんでした。関根さんにも、そうした狙いがあったのはたしかだと思います」 若手選手に対する生きた教材として一流選手を獲得する。関根はさらに貪欲だった。タイガースを辞めたばかりのバース、そして掛布雅之の獲得も試みている。さらに、契約がこじれていた現役メジャーリーガーのノーラン・ライアンにまで触手を伸ばすのである。 「そうです、それはいずれも実際に交渉しました。関根さんから頼まれて、バースと掛布には私が電話しました。バースに関しては契約寸前まで進んでいたんですけど......」 三十数年前の記憶をたどりながら、安藤は当時を振り返った──。 (文中敬称略) 後編につづく>> 安藤統男(あんどう・もとお)/1939年4月8日、茨城県生まれ。土浦一高から慶應義塾大を経て、62年に阪神に入団。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍した。70年にはリーグ2位の打率.294をマークし、二塁手としてベストナインを獲得。同年のオールスターにも出場。73年の現役引退後は、阪神の守備走塁コーチ、ファーム監督などを歴任し、82年から一軍監督に就任。84年まで3年間指揮を執った。87年から3年間はヤクルトのヘッドコーチを務め、2002年から09年まで阪神のOB会長を務めた
長谷川晶一●文 text by Hasegawa Shoichi