散乱する彫像の残骸、裁かれる元戦闘員 イラクで見たISの断片
前の半分が鉄板で覆われた車
とある日、僕が現地拠点としているイラク連邦警察軍の基地に戻ると、警察官が面白いものを見せてやると言い、基地の奥に連れて行かれた。そこには何やら出来損ないの日曜大工で作ったような車が停めてあった。見たところは普通のセダンのような格好だが、車の前半分とタイヤが分厚い鉄板で覆われていて、運転席に数十センチ四方の小さな窓だけが確保されている。 中をのぞくと運転席以外のシートが取り外されてガラーンとしている。「ISが自爆攻撃に使おうとした車さ」警官が言った。 取り外した座席のスペースに爆発物を満載して突っ込んでくるのだという。普通の車では突っ込む前にライフルやロケット弾で破壊されてしまうため、車体を分厚い鉄板で覆っているのだ。 そういえば同じように鉄板で不自然に覆われた車の焼け焦げた残骸を、前線で見たことを思い出した。あの車は原型を留めていたから、爆発させる前に操縦者は絶命したのだろう。自爆が成功しても成功しなくても、生きては帰れない。こんな車に乗って突っ込む人間は、最後の瞬間いったいどんな気持ちで、何を考えるのだろうか。自分が信じるものの為に殉死して天国に行けると信じ、恐れを感じないのだろうか。それとも車に当たって炸裂する銃弾やロケット砲の爆発音の中で、恐怖に震えながら家族や恋人、友人たちの事を思うのだろうか。 よほど心の中で信じる物がなければ、こんな事はできないであろう。それを可能にしてしまう信仰の力の強さに、驚きと恐れを感じざるを得なかった。
民家風の裁判所で見たもの
かつてキリスト教徒たちの街であったバグダッド西方のハムダニヤ。多くの教会や家々がISによって焼かれ、今はほぼゴーストタウンと化している。その街の一角にその裁判所はあった。 一見すると大きめのアラブ風の石造りの民家だが、中に足を踏み入れると壁に沿って男たちが後手に縛られ膝をついて並ばされていた。全員地面を見つめるようにうなだれ、表情は分からない。彼らの周りを兵士が囲み、カメラを向けることすらできない。 「全員、ISの元戦闘員だ」と兵士の一人が言った。力なく座るその後ろ姿からは、とても彼らがISの戦闘員だとは思えなかったが、目の前の彼らもテレビやYou Tubeの映像で見るような残虐非道な人間なのだろうか。