波照間島出身者が語る「マラリア地獄」 軍命で死んだ552人
日本最南端の有人島、波照間島(沖縄県竹富町)には、島民の3分の1が亡くなった悲惨な戦争の歴史がある。太平洋戦争末期、マラリアが蔓延(まんえん)していた隣の西表島に、軍命で避難させられた。町史によると、島民の9割以上が罹患(りかん)。薬がないことに加え、帰島後の食糧難もあって552人が死亡した。「この史実を忘れてはいけない」と島には今年、「波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑」が建てられ、慰霊祭も行われた。「マラリア地獄」を生き抜いた、波照間島出身の人々に当時の話を聞いた。 【写真】慰霊祭に参列した白保昇さん。当時10歳だった。=2024年6月15日午前、沖縄県竹富町の波照間島、吉本美奈子撮影 白保昇さん(89)が、慰霊碑の方向を指さして語ってくれたのは、疎開先へ向かった夜の思い出だった。敵に見つからないよう移動は夜中。教科書を手に裸足で歩いた。港に向かう道は現在、碑が立つ道沿いだったという。帰島後、家族はマラリアにかかり、1週間で祖母や母ら3人が相次いで亡くなった。きょうだいもマラリアにかかり、出征し戦死した兄も含め7人きょうだいの5人が亡くなった。「何度も西表島に慰霊に訪れているが、波照間島で手を合わせることができる」。慰霊祭では新しい碑に献花をした。 今も島に住む大仲シズ子さん(95)は当時、挺身(ていしん)隊で竹やり訓練などを行っていた。波照間島に帰島後、マラリアで髪の毛が抜け落ち、2回、丸坊主になったという。「今はこんなにフサフサだけどね」と笑う。食べ物がなく、はうように家の石垣を伝って移動し、門の横の地面に落ちていた桑の実を拾って食べたという。「今日は誰、明日は誰と亡くなっていったさ」
朝日新聞社