【中央時評】破局的葛藤に対する恐れ=韓国
政治をしてはいけない経歴(検察総長)を持つ人に政治を支配する野心を抱かせたことから間違いだった。彼は歴代大統領のうち最多得票(1640万票)で大統領になった。文在寅(ムン・ジェイン)大統領の得票数(1340万票)よりはるかに多かった。その時の民心は尹錫悦(ユン・ソクヨル)にあった。いま考えると当惑する。当時の彼の突然の成功が今、彼の没落で終わろうとしている。 尹錫悦の成功以前には「長い政治の失踪」があった。与野党が責任を持って民主主義を運営していれば、政治の経験が一度もない強権的国家機構の首長を大統領にすることはなかっただろう。政治とは何か。イタリアの政治学者ジョバンニ・サルトーリによると、「敵対する葛藤を共存可能な異見に転換すること」が政治だ。葛藤が異見になってこそ、討論し、調整し、交渉する方法で社会を分裂でなく統合に導くことができるからだ。英国の政治学者バーナード・クリックの政治擁護論はさらに興味深い。彼は政治を「憎悪のない戦い」と定義する。どの社会でも「互いに正しいと信じる信条が異なるにもかかわらず共同の変化を作る特別な実力」を必要とするが、そのような実力の発揮は憎悪の方法で成り立たないからだ。 政治が「選好の多様性」を土台にした人間の活動なら、反政治は異見や違いを寛容できない「憎悪の政治」を意味する。憎悪の政治は形容矛盾だ。ところが尹錫悦の以前に韓国政治はすでに憎悪と敵対を特徴とした。与野党はあったものの与野党の間に政治はなかった。与野党は自分たちの支持者に向かって情熱を動員しながら互いに反目する、政治でない政治をした。尹錫悦はそのような憎悪の政治が胚胎した人物だ。 彼は政治を軽視した。そして総選挙で野党が圧勝すると政治に向けて怒った。不正選挙でなければ理解できないという妄想にも引き込まれた。その時から彼は政治を強く嫌った。李在明(イ・ジェミョン)代表の野党も嫌ったが、与党代表の韓東勲(ハン・ドンフン)をさらに嫌った。国会が道理に悖るものに見えた。ついに彼は「これが国か」とし、政治から国家を救うという、怒りに満ちた決心をした。非常戒厳の試みは失敗した。ところが尹錫悦は朴槿恵(パク・クネ)元大統領と違った。彼は政治と正面から戦う選択をした。彼が戒厳を「国民だけを眺めて」「国民の皆さんだけを信じて」下した救国の決断と規定した時にはぞっとした。彼の言葉には新しい敵対の種が隠れていた。彼は自身の危機と国家の危機を同一視した。自身の怒りを国民の怒りに置き換えた。一言でいうと極右ポピュリズムに向かう意志を加減なく表した。 極端に両極化した与野党の政治環境のため、尹錫悦の挑発が一つのエピソードとして終わらないかもしれないという恐れを抱く。国民の力が尹錫悦と決別して穏健保守の道を選択すればよいが、そのような可能性は減っている。民主党は自分たちと考えが異なる人たちを「内乱同調」勢力に追い込む悪い選択から抜け出せずにいる。与野党のどこを見ても政治が復元される余地はないようだ。市民社会の敵対的な分裂は日々深まっている。今の状況が続けば「路上の政治」だけでなく「極右の空間」も拡張されやすい。 8年前の大統領弾劾は穏健保守まで包括する市民大連合政府であり政治大連合政府の形態に展開された。今回はさらに両極化し、さらに排他的な敵対を伴って嫌悪を刺激する状況に発展する可能性が高い。当時は社会的な合意に近く弾劾と罷免を終えた。それでもその後、政治の両極化と社会の分裂は激しくなった。今回ははるかに悪い状況で同じことを繰り返さなければいけない。今もそうだが今後がはるかに危険に見える。与野党の政治的責任性が今回ほど切実に求められる時もないようだ。 人間が天使なら政治は不要だ。政治がなくても必要な社会的協力を維持するのに困難がないからだ。天使を連れてきて政治を任せることができるのなら政治問題で心配することはないだろう。天使の政治は善意に満ちて利他的であるはずだからだ。残念ながら人間は天使ではない。対立と憎悪でなく共存と平和の方法で葛藤を解決していく政治の技芸が発揮されなければ、我々は互いに対して野獣になるかもしれない。今の状況はその方向に向かっている。 一方には無政府状況に向かう断崖がある。別の一方は極端葛藤に落ちる断崖だ。政治の復元という小道を通すことができなければ、予期せぬ破局的状況にぶつかるかもしれない。大統領選挙も憎悪のない競争でなく、憎悪と敵対が最大化された乱闘場になる可能性がある。今の状況を平和的に管理する政治的実力を先に発揮してこそ、大統領選挙もあり、勝利もある。大統領選挙の勝利だけを考えるのは安易な夢だ。無責任なことかもしれない。状況は予想以上に悪い。 パク・サンフン/政治学者