特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#62
処刑言渡式を終えて
死刑囚の部屋から連れ出された幕田大尉ら石垣島事件で死刑が執行される7人は、手錠をかけられて階下へ連れていかれた。そして、スガモプリズンの所長以下、米軍将校が居並ぶ部屋に一人ずつ入れられて、死刑の執行を言い渡された。その式を終え、ブルーという棟(かつて女性の収容者が入っていた)の部屋に入れられたところで、幕田大尉は鉛筆を手にしている。 なお、スガモプリズン入所者の個人記録を見る事が出来て確認したところ、幕田大尉の生年月日が判明した。1919年2月生まれ。「世紀の遺書」では30歳で刑死となっているが、亡くなった時は満年齢で31歳だった。 〈写真:死刑の宣告を受ける幕田稔大尉(米国立公文書館所蔵)〉 <世紀の遺書 幕田稔>※現代風に書き換えたところあり 山形県出身 海軍兵学校卒業 元海軍大尉 昭和25年4月7日、巣鴨に於いて刑死 無題 夜九時頃、処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考えていたがなかった。署名は兎に角こりごりである。全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかえしたくない。死によってすべて御破算になるのではない。 言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待っているとき、本当に落着いた気持ちになって、考えたら死というものはない様に思われる。かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が、絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。 私の肉体は亡びる。生命も消散するであろう。霊魂という様なものがあったら、それも無に帰するであろう。然し現在の私は永遠に存続する。この世界宇宙は残っている。 〈写真:世紀の遺書(巣鴨遺書編纂会 1953年)〉
私が死んでも世界は残る
石垣島事件の裁判前の取り調べ(米軍の調査)では、幕田大尉は首を絞められるなどの暴行を受け、事実でない内容に署名をさせられている。この苦い経験が、死刑執行の言渡式のタイミングでも頭をよぎっていた。そして自らが到達した悟りの世界から自分の死を見つめている。 <世紀の遺書 幕田稔> 昨年五月二十五日夜、突然私の脳裏に深き確信をもって浮かんで来た、自己即宇宙―道元の言葉をかりて云えば尽十方世界という様なものであろうかーの意義は、現在に於いては私が死んでも世界は残るという、ほのかな確信になって残っているのであると考える。 死という事が、昨年五月以前に考えていた様な感覚で、私に追って来ない。実在の死として感じられない。この感覚は私の幻覚としてほのかに私によみがえって来た様に最初は考え、言渡式が始まる頃まで消え失せるのではなかろうかなど危惧に似た思いがしたが、言渡式が終わっても依然として残っている。 私の頭脳にほのぼのとしている。であるから今の私には死という物が殆ど平常の生活に於ける感じと異ならない。恐らく読む人は誇張と受け取るかも知れないがそうでない。勿論、明日の事はわからないが、現在の心境は、五棟の三階でいつもの様に起居している時と少しも変わりはない。 〈写真:世紀の遺書 幕田稔の項〉