「プーチンに最も恐れられた男」の運命を変えたあの日、何が起こったのか─世界を揺るがせた毒殺未遂事件を本人が振り返る
ロシアの野党指導者アレクセイ・ナワリヌイを国際的に有名にしたのは、2020年の毒殺未遂事件だった。死の淵をさまよった「プーチンに最も恐れられた男」が、あの日に何が起こったのかを克明に語る。同じ手段でプーチンに消された数々の政敵たちも、このような思いをしたのかもしれない──。 【画像】『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』 ※本記事は『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』(アレクセイ・ナワリヌイ著、斎藤栄一郎・星薫子訳)の抜粋です。
何事もない朝
推理小説よろしく、あの日の出来事一つひとつを正確につなぎ合わせていこうじゃないか。それが定石である。ほんの些細なことが謎解きの鍵を握っている可能性があるからだ。 あれは2020年8月20日のことだ。私はトムスクのホテルの部屋にいた。朝5時30分、目覚まし時計が鳴る。すくっと起きて、バスルームに向かう。シャワーを浴びる。ヒゲ剃りはしない。歯磨き。ロールオンタイプの制汗剤は空になっていた。それでも空の容器を脇に転がしてからごみ箱に放り込む。その容器は、数時間後に部屋を捜索に訪れた仲間が見つけることになる。 大きなバスタオルを羽織ってベッドに戻り、今日は何を着るか考える。下着にソックス、Tシャツ。スーツケースの中を覗き込んで10秒。服選びとなると軽いめまいを覚えるような人間だ。 気恥ずかしい思いが頭をよぎる。昨日と同じTシャツというのもどうかな。もっとも、5時間後には自宅だ。着いたらまたシャワーを浴びて着替えればいい。いや、それはさすがにまずい。仲間に気づかれ、うちの代表は最悪にだらしないと思われても困る。 ホテルのランドリーサービスから洗濯物が戻っていたので、Tシャツとソックスを取り出した。スーツケースには新しい下着もあった。着替え終わって時計を見たら5時47分。飛行機には余裕で間に合う。 その日は木曜日。毎週、同じスケジュールで動いている。木曜は何があろうと夜8時には生配信があり、ロシアの1週間を振り返って意見を表明することになっている。 『アレクセイ・ナワリヌイと語る未来のロシア』は、ロシアでも屈指の人気を誇る動画配信番組で、5万~10万人がライブで配信を視聴し、さらにその後、オンデマンドで最大150万回もの再生数を誇っている。今年に入って視聴者数は100万人を割り込んだことがない(その日が木曜日でなかったら、あと数日はシベリアに滞在していた)。 時刻は6時1分。遅刻は嫌なのだが、決まって荷造り後に入れ忘れに気づく。椅子にベルトがかかったままだった。再びスーツケースを開けてベルトを放り込み、パンパンなのを悪戦苦闘しながら無理やり閉める、お馴染みの儀式が待っている。スーツケースに全体重をかけてファスナーを引っ張り、「お願いだから破裂しないでくれよ」と祈るように、押さえつけていた手を離す。 6時3分にホテルのロビーに降りていくと、すでに広報担当のキーラ・ヤルミシュ、アシスタントのイリヤ・パホモフが待っていた。イリヤが呼んでおいてくれたタクシーに乗り込み、空港に向かう。途中で運転手がガソリンスタンドに寄る。ふつうなら客を乗せていないときに給油するだろうから、少々奇異に映ったが、すぐに忘れてしまった。 空港では、ロシアのどこでも共通のくだらないルールが待っている。荷物を金属探知機に通さなければ、空港の建物に入ることもできないのだ。 2列に並び、2つのチェックポイントを通過する。この行列がなかなか進まない。自分の前の客がポケットの携帯電話を取り出し忘れて時間を食うのもお約束のパターンだ。探知機の警報音が鳴り響く。やれやれ、この男は腕時計を外していないじゃないか。今度は3度目の警報音だ。 間抜けな客に悪態をつきたい気持ちをぐっとこらえながら、私もゲートをくぐる。案の定、警報音が鳴る。私も時計を外し忘れていた。「あ、すみません」。謝りながら後ろの客の顔を見る。10秒前の私と同じ気分であろうことは、目を見ればわかる。 こんな馬鹿げたことで、せっかくのいい気分までぶち壊しにしたくはない。もうすぐ我が家に帰れる。そうすれば今週の仕事はおしまい。家族と週末を過ごせる。気分は最高だ。 ほどなくして私は、同行のキーラ、イリヤとともに空港ターミナルの中央に立っていた。いかにも早朝に見られる出張族である。出発まで1時間ある。辺りを見まわしながら、搭乗時刻までどうやって時間を潰すか考える。 「お茶でも飲もうか」と私が誘う。早速、店に向かった。