「プーチンに最も恐れられた男」の運命を変えたあの日、何が起こったのか─世界を揺るがせた毒殺未遂事件を本人が振り返る
怪しい人影… それでも「万事順調」
3つ先のテーブルで、こっそり私たちを撮影している男の姿が目に入った。もうちょっと品よくお茶を飲むべきだったか。どうせ「トムスク空港でナワリヌイ発見」などとキャプションを付けて、背中をまるめてお茶をすする私の姿をインスタグラムにさらすのだろう。 この動画は、のちに数えきれないほど再生され、秒単位で映像が精査されることになる。問題の動画には、店員が赤い紙コップに入った紅茶を私にわたす姿が映っている。彼女以外は誰も紙コップには触っていない。 空港で私は「シベリアのおみやげ」と書かれた店に立ち寄り、キャンディを購入する。レジに向かって歩きながら、妻のユリアに手渡すときに何か気の利いたジョークの一つも言えないものかと考えていた。だが何も思いつかない。まあいい。そのうち思いつくだろう。 やがて搭乗を知らせるアナウンスが聞こえてきた。7時35分、パスポートを係に見せ、バスに乗り込み、150メートル先に駐機する飛行機まで移動する。 この便は搭乗客が多いと見えて、バスの中は少々騒がしい。ある男が私に気づくと、一緒に写真を撮ってほしいと近寄ってきた。快く求めに応じた。すると堰を切ったように、10人ほどが混雑する車内をかき分けながら私に近づいてきた。楽しそうな笑顔の私がみんなの携帯のカメラロールに収まる。 そしていつも思うのだが、本当に私のことを知っているのは、このうち何人くらいなのか。何だか有名人らしいから一緒に写真を撮っておくかと思った人はどのくらいいるのか。そういえば、米国のテレビドラマ『ビッグバン★セオリー ギークなボクらの恋愛法則』で、物理学者のシェルドン・クーパーが二流有名人を定義していた。「誰かが説明してくれれば、多くの人がそうだったと思い出す」人物というものだが、まさに言い得て妙だ。 飛行機の前でバスを降りても、まだ写真撮影が続く。気づけば、他の乗客は機内に入っていて、私たちが最後になってしまった。バックパックとスーツケースを持ち込むので、収納スペースにまだ空きがあるのか不安になる。収納棚がいっぱいだったらどうしよう。機内をうろうろしながら、手荷物の空きスペースがないと客室乗務員に泣きつくような哀れな乗客になるのはごめんだ。 結局、心配は無用だった。スーツケースは頭上の収納棚に、バックパックは座席の足元スペースにきれいに収まった。同行スタッフは、私がどうしても窓側席に座りたいことを承知している。3席並びの真ん中と通路側にスタッフが陣取り、ロシア政治について話しかけてくる乗客から私をガードしてくれるのだ。 私は基本的には話し好きなのだが、飛行機の中だけは勘弁してもらいたい。機内は常に騒々しい。わずか20センチほどの距離まで顔を近づけてきて、「汚職を調査しているんですよね? 僕の経験談も聞いてくださいよ」などと大声を出されるのはまっぴらごめんだ。ロシアは汚職で成り立っているようなもので、誰もが思い当たる節がある。 その日は最初から気分上々だったが、これから3時間半の空の旅は完全にリラックスできる至福の時間。そう考えると、ますます気分が良くなっていった。真っ先にテレビアニメ『リック・アンド・モーティ』を見る。続いて読書だ。 シートベルトを締め、スニーカーを脱ぐ。飛行機が滑走路を走り始める。バックパックに手を突っ込み、PCとヘッドホンを取り出し、ダウンロードしておいた『リック・アンド・モーティ』の適当な1話を開く。運がいい。リックがピクルスに変身するストーリーだ。お気に入りの回である。通りかかった客室乗務員の男性がこちらをじろりと見る。時代遅れの機内保安規則上は、PCも閉じることになっているが、特にお咎めなしだった。二流有名人の役得である。今日は万事順調だ。 だが、その幸せは突然終了する。(続く) レビューを確認する 万事順調だと思ったナワリヌイに、いよいよプーチンの毒牙が襲いかかる。神経毒に冒された人間は、どのような感覚で死んでいくのか──。衝撃の後編へ続く。
Alexei Navalny