「音楽業界が変わっちゃった」進まないキャンペーン ソニーにベスト盤を提案、5枚組のアルバムに コロナ禍で休養した理由 真木ひでとさんインタビュー
1960年代末、グループサウンズ「オックス」のボーカリストとして一世を風靡。1975年の演歌転向以降も数々のヒット曲を放ち、日本の音楽シーンに燦然と輝くスター・真木ひでとさん。 【写真】いよいよ再始動?真木ひでとさんが現在の思いを語りました 筆者がひでとさんと初めて出会ったのは2006年7月29日。大阪・ミナミの精華小学校跡で開催された音楽イベント「ヱビス一番音楽祭」で前座を務めた時。ライブ後に「かっこ良かったよ!これから頑張ってね」と労ってくれた優しい笑顔が印象的だった。それからしばらく間が開いたが、数年前にあらためて仕事でご一緒する機会があり、時おり電話やメールをするようになった。 ひでとさんは70歳を迎えた2020年以降、表だった活動をしていない。はたして今どんな思いで過ごしているのか。音楽活動と平行して、グループサウンズや昭和歌謡の歴史を若い世代に語り継ぐことをライフワークにしている僕。しっかりお話を聞いておきたいとインタビューを申し込んだところ、ひでとさんは快諾してくれた。オックス解散後の真木ひでととしての再起について紹介した中編に続き、後編はタイガース・メモリアル・クラブバンドに参加した1988年から『元気の星』のヒット、近況と今後について余すところなく聞くことができた。
「グループサウンズのメンバーで集まらないか」
ーー1988年にザ・タイガースの森本太郎さんが主宰するタイガース・メモリアル・クラブバンドに参加されました。 ひでと:太郎さんとはグループサウンズ時代はお話したことなかったんだけど、その後、芸映でプロデューサーをされていた頃、空港とかでよくすれ違ってご挨拶していたんですよ。そしたらある日、電話がかかってきて「グループサウンズのメンバーで集まらないか」と。 グループサウンズ系の企画と言えば1981年にも内田裕也さんが企画した「サヨナラ日劇ウエスタン・カーニバル」があって、僕も誘われてたんだけど、その時は『雨の東京』がヒットして忙しい時期。それにオックス時代に日劇ウエスタン・カーニバルには出てないのに今さら僕一人出ていくのもおかしいような気がして、せっかくの裕也さんからのお話だったけどお断りしました。 歳月が流れ、太郎さんに声をかけてもらった時は、僕は独立して事務所を経営していたので自由な選択ができました。目標にしていたザ・タイガースの太郎さんからの直接のお誘い。同じナンバ一番出身ですし、光栄なことだと思い参加を決めました。 ーーオックスの曲は演歌転向後も歌われていたんですか? ひでと:最初の2年間は所属事務所から「過去の栄光は捨てなさい」と言われていたのでオックスの歌は唄ってませんでしたが、やっぱりリクエストが多いので、演歌の曲とは別のコーナーを設けて歌うようになりました。でも知らず知らずのうちに演歌の癖が出てたんだろうね。メモリアルで歌うとみんなから「ひでと、こぶしが回ってるよ」ってツッコまれるんだよね(笑)。
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