「音楽業界が変わっちゃった」進まないキャンペーン ソニーにベスト盤を提案、5枚組のアルバムに コロナ禍で休養した理由 真木ひでとさんインタビュー
オーラがタイガース時代のジュリーに
ーー活動を通し印象的だったことは? ひでと:結成後、1989年4月に大阪城ホール、6月に横浜アリーナという大きなイベントがありました。大人になったグループサウンズファンたちの大歓声を聞いた時は感慨深かったです。いろんな思い出があるんだけど、沢田研二さんのステージングは特に印象的でした。ソロの沢田さんとは音楽番組で何度も共演して雰囲気を知っていたんですが、メモリアルのステージに立つと放つオーラがタイガース時代のジュリーに切り替わるんですよ。仮に僕がオックスの曲を歌っても野口ヒデトには戻れませんからねぇ。あの切り替えはそばで見ていてすごいなと思いました。 ーーグループサウンズの面々とはどんな関係でしたか? ひでと:同じグループサウンズと言っても、昔は先輩、後輩の序列が厳しいし忙しいのもあって一部の人以外は交流は少なかったんです。でもメモリアルの頃になるともうみんな分け隔てない感じ。仕事のついでにお酒を飲む機会も多くて、仲間のような付き合いになりました。沢田さんや三原綱木さんとまともにお話できるようになったのもメモリアルに参加してからですよね。アイ高野さん、岡本信さんは気楽に話せる仲間のような感じに。二人とも早くに亡くなっちゃったけど、今でもよく夢に出てくるんですよ。メモリアルには7年間参加したけど、先輩や昔、ライバルと呼ばれた人たちと親交を深めることができたのは貴重な体験でした。
オロナミンCのCMソング
ーー1991年に『元気の星』がヒットします。 ひでと:『元気の星』は意外なヒットでした。翌年の1月 事務所に「オロナミンCのCMソングを歌ってくれませんか」と電話がかかってきたんですが、当時のオロナミンCのCMと言えば読売ジャイアンツ。前年の日本シリーズでジャイアンツが勝ち星なしで4連敗したことに「もう二度と応援しない!」なんて会う人ごとに言ってた。選手に会えるかもって、勝手なもので前言を撤回したんだよね(笑)。それまでの「オロナミンC」の曲ってかっこいいものが多かったからかなり期待してデモテープを聴いたらひっくり返りました。 ――野球ファンには馴染み深い曲ですが、ひでとさんとしては異色の作風ですものね。 ひでと:マーチ調の歌なんて今の時代は流行らないって先入観があり、いかにも打ち込みって感じの曲調だしレコーディングでも「ヘタに歌って欲しい」なんて言われて大変でしたね(笑)。はじめCD化の予定は無かったんですけど、大塚製薬さんからぜひにとオファーがあったので、元々は3番までだったのを4番に増やして発売したんです。僕もスタッフも「これは売れないよなぁ」と言ってて、ジャケ写もオロナミンCの瓶をそのまま使ったほうがいいと写真も撮らなかった。それが蓋を開けてみたら毎日数千枚単位でオーダーが来る。ランキングも上昇して、結果的に『雨の東京』以来のヒット曲になっちゃった ありゃりゃこりゃりゃですよね(笑)。おかげでジャイアンツのファン感謝デーに呼んで頂いて、選手とも交流が出来たのは嬉しかったですね。CMソングで知ってる人が多いから、今でもライブで重宝する曲です。いつも節目節目でいい曲をいただいているんですね。
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