竹中半兵衛の居城・菩提山城跡から本丸御殿の礎石…通説の「詰城」でなく居住施設の「御殿」だったか
豊臣秀吉の軍師と言われる戦国武将・竹中半兵衛(1544~79年)が居城にした菩提山城跡(ぼだいさんじょうあと)から、半兵衛が治めていた16世紀後半頃の本丸御殿の礎石が見つかった。城は戦の際に使った「詰城(つめじろ)」と従来考えられていたが、日常的に居住していた可能性が高く、垂井町教育委員会は「通説を覆す発見」としている。 【写真】城跡から見つかった茶器「華南三彩」の破片
菩提山城は、美濃と近江の国境付近の岐阜県垂井町岩手の菩提山山頂近く(標高約400メートル)に築かれた。濃尾平野を一望でき、遠くに岐阜城が見える。15世紀初め頃の文献に登場し、1544年の古文書では地方豪族の岩手氏が管理していたとされる。半兵衛の父、重元が58年に岩手氏を追放した後は竹中氏が代々城主となり、江戸時代前半に廃城になったとみられる。
城跡からは、山肌を削って造られた平らな敷地「曲輪(くるわ)」などがいくつも確認されていた。城跡の国史跡指定を目指す町教委は、滋賀県立大の中井均名誉教授(日本城郭史)を委員長とする城跡の総合調査検討委員会を設置。曲輪のうち主郭(約70平方メートル)と台所曲輪(約60平方メートル)の2か所を中心に今年9月から調査を始めた。
町教委は3年間調査を行った後に報告書をまとめ、2028年度に国史跡の申請をしたい考えだ。
茶器、碁石も出土
今回の発掘調査では、城の中核の本丸に当たる主郭の地表近くは3層になっていることがわかった。最下層は岩手氏が治めていた16世紀中頃のものだった。その上の第2層は16世紀後半頃の竹中氏の時代で、土と小石などが入っており、大規模な造成が行われたとみられる。
第2層からは、建物の柱を支える礎石がほぼ1間(約1・8メートル)間隔で10基見つかった。礎石が一部抜けているが、御殿は少なくとも4間四方の規模だったと推測されるという。
茶の湯で珍重された中国産の茶器「華南三彩」や青磁、国産の素焼き皿「かわらけ」の破片、碁石、刀など計約250点も出土した。山上で茶会や碁会などが催されていた可能性があり、戦のための詰城ではなく、居住施設の「御殿」だったとの見方が浮上した。