小倉智昭さん、6年前の「承知の上で炎上」発言に感じた生粋のテレビマンとしての覚悟と3年後に漏らした本音
昭和、平成、令和を駆け抜けた大物キャスター・小倉智昭さんが9日午後、死去したことが10日、分かった。77歳だった。 ここに小倉さんの話をたっぷり聞いた後、ポーズを取ってもらって撮影した写真がある。真ん中でちょっとニヒルな笑みを浮かべた大物が、じっとこちらを見つめている。 2018年3月22日、東京・台場のフジテレビの大型スタジオ。私の目の前には翌月から同番組のアシスタントに就任する予定の伊藤利尋、山﨑夕貴両アナウンサーを従えた小倉さんが立っていた。 小倉さんが22年間にわたってメインキャスターを務めた同局系朝の情報番組「情報プレゼンター とくダネ!」のリニューアル(当時)にあたって開かれた取材会。 16年7月に放送回数4452回を記録。同局系「小川宏ショー」(65~82年)を抜き、「同一司会者による全国ネットのニュース情報番組」での放送回数最多記録を樹立していた大物は、まだ膀胱がんの公表8か月前でまさに貫禄十分。真っ黒に日焼けした顔でスタジオに登場した。 ネット記者生活4年目。テレビ出演の著名人の発言を記事化する、いわゆる“コタツ記事”も手がけていた私は毎朝の大型情報番組を20年以上、スタジオのど真ん中で回し続けてきた大物司会者に、ここぞとばかりに聞いていた。 「ネット記事全盛の今、小倉さんが『とくダネ!』の生放送中に話したことが、即座にネットニュースとなる。自分自身がニュースの発信者にもなっている現状をどう思いますか?」― 番組リニューアルには直接関係ない質問にも、こちらを見て確かにニヤリと笑った小倉さんは、こう口にした。 「(ネットの)反応がはやいのは知ってますし、番組が終わって、スタッフと『きっと、火ついてるよね』とか『炎上してるよね』というと、『炎上してま~す』って(答えが返ってくる)」―。 そう舞台裏を明かした上で「これ言うと、たぶん炎上するなって承知の上で炎上させている部分もありますし、なんで、これで、こんな騒ぎになっちゃったんだろう、ちゃんと最初から最後まで聞いてくれたら、こんなことにならないのになと思うこともあります」と続けた。 最後に「ただ、良きにつけ悪しきにつけ、そうやって話題になるのはいいことだと思ってます。これからも、どんどん書いていただくなり、叩いていただくなり」と、真正面から私の顔を見つめて答えてくれた。 その時、小倉さんが見せたのは、常に炎上も上等の情報の伝え手としての固い決意。その場で話したとおり、その後の膀胱の全摘出手術の際も「視聴者が興味があるなら」と闘病中、何度も電話出演。“ニュースの発信者”として話題を呼び続けた。 そこにあるのは自身が関わる番組と自身に興味を持ち、見続け、聞き続けてくれる視聴者、リスナーにリアルな情報を届けねばという思いと、筋金入りのマスコミ人としての誇りだった。 ただ後日談もあった。 その3年後、同番組の終了を生放送で「『とくダネ!』が足かけ22年、3月いっぱいで終了することになりました。本当に皆さんには長い間、ごらんいただいたんですが…」と報告した小倉さんは、こう続けた。 「病気してから、ネット情報とか見るようになっちゃったんですね。そうすると、やっぱり『老害じゃないか』とか『ボケてるんじゃないか』とか、キツいものなんですよ。で、お年寄りの政治家を見ると『ああ、やっぱり年取るとダメだな』なんて、少しずつ思うようになりました。そんなこともあって、私はそろそろいいのかなって…」と番組終了への思いを本当に正直に吐露したのだった。 18年の“炎上上等宣言”から3年後のちょっと弱気な「私はそろそろいいのかなって」発言まで。私はそのすべてをリアルタイムで耳にし、多くのことを学んだ。 独協大卒業後に入社したテレビ東京でのアナウンサーデビューが1970年だった小倉さん。生まれついてのテレビマンは情報の伝え手としての54年間を時には強がり、時には弱音もポロリと漏らす誰をも引きつける魅力を持ち続けたまま全速力で駆け抜けた。 誰にもまねのできない本当に魅力的な人生だった。心底、そう思う。(記者コラム・中村 健吾)
報知新聞社