アメリカの「撃墜王」の「あっけない最期」 超低空で橋を潜りぬける「やんちゃ」だったが… 「双尾の悪魔」が生み出したエースとは
ドイツ軍を恐れさせた「双尾の悪魔」 第二次大戦直前から戦中にかけて、列強各国は武装や燃料の搭載量の多さを求めて双発戦闘機の開発を試みたが、より軽快な単発戦闘機と互角に戦える機体はほとんど生まれなかった。 このような厳しいジレンマの中、数少ない成功作がアメリカ軍のロッキードP-38ライトニングである。 当初、侵攻して来る敵重爆撃機の迎撃に主眼を置いて開発された本機は、空気抵抗と重量の削減のため一般的な航空機とは異なる独特の機体形状を採用したが、これが成功の鍵となった。 とはいえ双発のためドッグファイト(格闘戦)には不向きで、ヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)を得意としたが、本機の実戦配備当初、小回りが利く日本戦闘機とのドッグファイトに引き込まれて損害が続出。 そのため日本のベテラン戦闘機乗りたちは、P-38の「3」は書き方によっては平仮名の「ろ」にも見えることも合わせて、「P」を「ぺ」と読み「ぺろ」っと「食える(撃墜できる)」の意味で「ペロ8」とか、その独特の平面シルエットにちなんで「目刺し」という蔑称で呼んだ。 だが「所変われば品変わる」ではないが、P-38と戦った北アフリカのドイツ軍は、制空戦闘だけでなく対地攻撃にも威力を発揮した本機を「双尾の悪魔」と呼んで恐れた。 山本長官機を撃墜しアメリカのトップ・エースを生んだ傑作機 やがてヒット・アンド・アウェー戦法が確立され、P-38も型式が進んで性能向上が図られると日本戦闘機をバタバタと撃墜するようになった。そしてその航続距離を生かし、かの山本五十六連合艦隊司令長官が乗った一式陸攻に待ち伏せ攻撃を仕掛けて撃墜している。 また、P-38はアメリカ航空史上最多撃墜機数を誇るトップ・エース、リチャード・アイラ・ボング(最終階級:少佐)を生んだ。 “ディック”や“ビング”の愛称で呼ばれたボングは1920年9月24日、ウィスコンシン州で9人兄弟の一番上に生まれた。州立スペリオール師範カレッジを中退し、1941年6月に陸軍航空士官候補生となる。そして翌42年1月、パイロット記章を得て少尉に任官すると、当時は新型機だったP-38の飛行教官としてハミルトン陸軍航空基地に着任した。 この時期のボングは、その腕の良さもさることながら若手パイロットとしての無鉄砲ぶりを発揮。超低空でゴールデン・ゲート・ブリッジの下を潜り抜けるなど飛行規則違反の「やんちゃ」をしている。 その後、太平洋戦域で戦う第5航空軍に転出。婚約者の名前を冠して機首に彼女の写真を大伸ばしして貼り付けた愛機“マージ”を駆って日本機40機を撃墜し、議会名誉勲章を受章。 軍はアメリカのトップ・エースが戦死することを危惧し、ボングを新型機の飛行審査などを行う国内勤務に配した。ところが1945年8月6日、当時最新鋭のジェット戦闘機P-80シューティングスターの飛行テストに臨んだところ故障が生じ、彼は脱出したものの高度が低すぎてパラシュートが開かず死亡してしまった。享年24。 あまりにも若い、そして、あまりにもあっけないアメリカン・ウォー・ヒーローの最期であった。
白石 光