恩師が語る引退発表した中日・福留孝介の知られざる逸話…ドラフト1位指名された近鉄入団拒否と阪神入団の真相
だが、福留は満足していなかった。19本に終わった本塁打を「増やしたい」「バットを長くしていいですか?」と佐々木氏に訴えたのだ。 引退会見で「うまくなったから楽しいではなく、うまくなりたいという気持ちを持って野球をやっているのが楽しかった」と語ったが、このあくなき向上心が福留の原動力だった。 佐々木氏は、せっかく作りあげた打撃が崩れるのを恐れたが、「34インチ,34半インチの2本をピッチャーのタイプで変えたらどうか」と提案。左投手との対戦時にバットを長いものに変え、その年、2年連続の打率3割をクリアし、本塁打は34本に増えた。佐々木氏が約束した年俸2億円を超えたのはそのオフだった。 佐々木氏が言う。 「福留の真似できない部分は、腕の柔らかい使い方。力で飛ばすんじゃなく、コンパクトにストンとコンタクトしてフォロースルーが伸びる。あの美しいフォロースルーは教えられない。そして逆方向に流し打った際にヘッドが下がらない。それができるのはイチローと孝介だけ。やっと出てきた3人目がヤクルトの村上宗隆だけどね」 佐々木氏は美しいフォローとヘッドが下がらない打法が福留の凄みだという。 「頭がスマートなんだよね。対戦した投手の配球は全部覚えている。そして投手のクセを盗むのがうまいし早い。オレも早かったけど孝介はそれ以上」 だが、福留に次なる試練が待ち受けていた。 2008年にシカゴ・カブスに入団。夢だったメジャー挑戦を果たすが、世界最高峰リーグの洗礼を受けた。開幕戦でホームランを打つなど、序盤戦の滑り出しはよかったが、その後、壁にぶつかった。佐々木氏は、福留に呼ばれアメリカへ飛んでいった。 「審判の判定が、ヨソ者の日本人にはボール一個から一個半ほど外角に広くなる。そうなると外のボールを追いかけるようになってバッティングが崩れた。イチローは動きながらでも外に対応できる幅がある。大谷や松井にはリーチがあるが」 佐々木氏は、1年目は自費でシカゴへ通ったが、そのオフに福留が球団にかけあい、公式の臨時コーチの立場となり、背番号「53」のユニホームを来て打撃指導した。 福留のメジャー生活は、5年で終わりを告げ、2013年から阪神に凱旋することになる。水面下で争奪戦が繰り広げられ、阪神と最後まで争ったのが、中畑清監督が率いる横浜DeNAだった。 佐々木氏は、てっきり横浜DeNAに行くものと思い込んでいた。自らも阪神の打撃コーチを務めたことがあり、阪神が置かれている特殊な環境を知っているからこそ、相談を受けた際に「阪神だけは大変。やめておいたほうがいい」と意見していた。 だが、福留が選んだのは阪神だった。 「ビックリしたね。冗談だと思った。でも、それが孝介の生き方。常に厳しいところに自分を置き勝負していく」 福留は、阪神では1年目は、ヒザの故障に苦しんだが、日米通算2000本安打や最年長記録を次々と更新。2020年オフに戦力外となったが、古巣にカムバック。最後は、原点の地でユニホームを脱ぐことになった。 佐々木氏が福留に託す次なる夢がある。 「福留監督を見たいよな。若い選手へ説くバッティングや守備の心構えを近くで聞いているだけで指導者の素質があると思う。どんな監督になるか」 まずは球団を離れネット裏から勉強することを薦めたいという。 引退試合は9月25日のバンテリンドームでの巨人戦が予定されており、佐々木氏は、最後の勇姿を目に焼き付けるつもりだという。 「涙でよく見れないだろうけどね。でも、まだご苦労さんとも、お疲れさんとも言っていない。孝介に贈る言葉はありがとうやね」 (文責・本郷陽一/RONSPO、スポーツタイムズ通信社)