恩師が語る引退発表した中日・福留孝介の知られざる逸話…ドラフト1位指名された近鉄入団拒否と阪神入団の真相
縁のなかった2人は、2001年にプロ3年目を終え、打率.251と壁にぶちあたっていたホープと1軍打撃コーチという関係で中日で再会することになる。 「星野さんの後を継いで監督に就任する山田久志さんから、福留を再生してくれと打撃コーチを依頼されたんだ。山田さんに声をかけてもらわねば、孝介という才能にあふれた選手と出逢うこともなかった。本当に感謝だよね」 そのシーズン西武の打撃コーチを務めていた佐々木氏は、当時の西武ドームにロッカーの方付けに出かけたが、翌日にコスモスリーグという若手の試合が西武第二球場であり、福留も帯同するという。佐々木氏は、1日、帰阪を遅らせて、その試合を観戦した。バットを寝かせて構え、こじんまりとまとまり、ドアスイングとなってインコースが打てず、福留の良さが消えてしまっていたという。試合後、会話を交わした。 「なんでそんなバッティングになってしまったの?PL学園時代のフォームへ戻そう。オレの言う“一言一句”を信じて頭に叩き込み、ついてくるなら2億円プレーヤーにしてやる」 佐々木氏は、そう約束した。当時の推定年俸は4200万円である。 秋の浜松キャンプから二人三脚の打撃改造がスタートした。 「バッティングは積み木。軸で打てるように下半身の土台作りからやっていこう。バットは楽に傘をさすように持つ。グリップを柔らかく、肘は伸ばさずに体の傍におき、体に巻きつけるように」 その後、メジャーリーグへ飛躍することになる福留打法の原型である。 フォームを固めるため1日3000本のスイングを1か月間、課した。春季キャンプに入っても2月15日までは、そのペースを守らせた。あまりに過酷な練習量に山田監督が、「こんなに振らせて潰れやしないか」と心配して佐々木氏に声をかけたほどだった。だが、福留は耐え抜いた。 「ご両親から授かった体が強かった。45歳までできた理由だろうね」 その2月15日が明けた、沖縄キャンプ中の紅白戦か、シート打撃で福留は苦手としていたインコースにバットが上からトンと出て右中間に凄まじいライナー性のホームランを叩き込んだ。「できたと思った」という佐々木氏は、山田監督に「今年は絶対打ちます」と約束した。その年、福留は、初の首位打者タイトルを取ることになる。最後は巨人の松井秀喜氏と熾烈なデッドヒートを繰り広げた。 「孝介がゴジラの3冠王を阻止したんだけど、最後の最後に苦しんでね」 佐々木氏には忘れられない一打がある。 9月27日から東京ドームで巨人と最後の直接対決の3連戦があった。福留は1戦目、2戦目とノーヒット。中日投手陣も松井氏と勝負して抑えていたが、福留はプレッシャーに押し潰されかけていた。迎えた第3戦。走者一塁の場面での第2打席に山田監督はヒットエンドランのサインを出した。 「祈ったね。ストライクがきてくれと。低めのボールだったが、一、二塁間を破るヒットになってね。一気にふっきれた。山田さんのファインプレー」 福留は、その後、阪神、広島、横浜2連戦と続く4試合で固め打ちをしてゴジラを突き放した。打率.343で首位打者を獲得、ベストナインにも選ばれ、そのオフに年俸は1億円を突破した。