大谷翔平は「書かずに勉強していた」花巻東の同級生・山根大幸が振り返る高校生活、その後の野球人生「引退を報告すると翔平からは…」
チェンジアップを1、2球投げて習得
要領の良さや器用さは、野球にも当然生きる。山根さんは、大谷からチェンジアップの投げ方を聞かれたことがある。 「僕が投手コーチの方に教えてもらったチェンジアップが結構良くて『それ、どうやって投げているの? 』と聞かれたので、説明したら1、2球で習得されてしまいました(笑)」 打者だけではなく、投手としての才覚も抜群に優れていた。ただ、2年夏に左足股関節を故障した影響で、技術練習を積む時間は限りなく制限された。「4番投手」で出場した3年センバツの大阪桐蔭戦では、5回まで2安打に抑える好投も、残りの4イニングで9失点。
的中した不安材料
山根さんは「翔平は大会に入るまで9回を投げる練習はしていませんでした」と明かす。 「それまで、5回ぐらいまでしか投げていなかったので、大丈夫かなと思っていたら、やはり後半にやられました。真っ直ぐもそんなに走っていなかったし、シュート回転もしていて、ボールが指にかかっていませんでしたね」 センバツが終わり、3年計画の集大成となる最上級生となった。夏へと向かう、高校球児にとって最も大切な時期と言っても過言ではない。 「あまり記憶にないんですよね。追い込み期間もあって、朝4時半から7時までバッティングして、学校が終わって23時まで練習していました。あっという間に夏が来た感じです」 ケガが癒えた大谷も例外なく、朝から晩まで野球に打ち込んだ。センバツで負けた悔しさが、より一層、追い込みに拍車をかける。もしこの時期を乗り越えていなかったら、「あの1球」は生まれていなかったかもしれない。
あの1球だけの違い
そして最後の夏。岩手大会準決勝、一関学院戦の6回に、その瞬間は訪れた。ピンチでギアを上げ、フルカウントから見逃し三振を奪った直球の球速が「160km/h」と電光掲示板に表示された。日本の高校生初となる大台到達は、岩手のみならず、日本中に衝撃を与えた。 「速かったですね。それまではずっと左足を上げていましたが、あの球だけクイックで投げたんですよ。だから、なおさら速く見えました」 決勝の盛岡大付戦では15三振を奪うも、3回、4番の二橋大地(現三菱重工West)に左翼ポール際へ浴びた3ランが最後まで響き、3-5で終戦。3季連続甲子園には、あと一歩届かなかった。 「みんな泣いていました。最後のミーティングが終わって、寮に帰る時には『終わったな』みたいな、そんな感じでしたね」
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