<高校野球物語2022春>/6 学校再生、白球とともに 和歌山東・元PTA会長の夢
2000年代に入っても「ヤンキー学校」と呼ばれた高校がある。卒業生が自らの出身高校を隠すほどだった和歌山東。学校再生には「あかんことはあかん」の精神と、野球部に託した希望があった。初めてつかんだ甲子園出場。ついに、かなう夢がある。 和歌山東は大会第1日(18日)の第2試合で倉敷工(岡山)と対戦する。「選手が開会式に参加できます。雰囲気にも慣れることができるので、落ち着いてプレーしてくれるでしょう」。そう話すのは、和歌山東野球部の特別後援会会長を務める西山義美さん(65)。PTA会長として学校再生の道筋をつけた一人だ。 「いろんなドラマがありましたね」。きっかけは今から約20年前、子供が通う和歌山東を訪れたときのことだ。目に飛び込んできた光景に驚いた。 教室の中にいる生徒は授業が始まっても4、5人程度。緑に赤に金色……。派手な髪の色が目についた。体育祭が開かれても参加しない生徒がいるのは当たり前。退学者も多いと聞き、荒れる現状を知った。 「全生徒、先生が一体となって応援できる部を作りたい」。05年春、子供の卒業と同時にPTA会長に就任した西山さんは、硬式野球部創設を学校側に持ちかけた。だが、反対された。その理由を西山さんは「夏の和歌山大会はテレビ中継されます。応援する派手な格好の生徒が放送されると学校にとって悪影響になると言われました」と振り返る。自身は高校退学も経験しているだけに「生徒には高校を卒業してほしい」と学校再生に乗り出した。 06年から朝の校門指導を始めた。礼儀と身だしなみを徹底させ、「あかんことはあかん」の精神で取り組んだ。髪や服装の乱れがあれば、何度でも注意する。「こんな指導は行き過ぎや」との声も上がったが、根気強く3年続けると、落ち着きのある学校に近づく。軟式からの転部を条件に10年4月、硬式野球部は誕生した。 ◇ひるまず全力、開花 「当時の名残はバックネットぐらいかな」。米原寿秀監督(47)は懐かしそうに振り返る。07年に母校の県和歌山商を70年ぶりのセンバツ出場に導いた指揮官は、その後に赴任した和歌山東で野球部発足当初から指導を続けている。 ボールは1ケース、打撃ケージも1個だけからのスタートだった。当時の2、3年生は軟式からの転向組。守備をさせても集中力が続かないため「楽しいことを」と、ひたすら打撃練習に費やした。だが、毎日練習する習慣がなかったためか硬式の水が合わず、グラウンドを去る選手も。最初の3年間で野球部を卒業できたのは4人だった。 「環境は悪かったですが、苦労と思いませんでした。部員の目線に合わせ、子供たちの持っている力を引き出すことだけを考えていました」。米原監督の覚悟は、ブレなかった。熱心な指導は徐々に結果につながり、4年目の13年夏の和歌山大会で4強入り。14年にはプロ野球・ソフトバンクで活躍する津森宥紀を擁して初の秋季近畿大会出場を果たすと、16、20年も秋の近畿大会に出場。実績を重ねたことで、有力選手も入学するようになった。 合言葉は「魂の野球」。相手にひるむことなく、持っている力を全てぶつける意味が込められている。21年秋の和歌山大会準決勝で、この年の夏の甲子園を制した智弁和歌山に勝利すると勢いに乗った。ボールを体で止める守備や、積極的な攻撃が好循環を生む。4度目の秋季近畿大会では初勝利を含む3勝を挙げて準優勝した。 創部から12年。今春、野球部員からは国立の和歌山大進学者も輩出予定で、学校は大きく改善した。初の甲子園に向けて西山さんは、「恥ずかしくない試合をやってくれればいい。校歌を聴きたいとかではなく、いい試合を見せてくれればうれしい」。甲子園でプレーする選手を全校生徒が一体となって応援する姿。長年の夢が実現する。【藤田健志】=つづく