『中西太、優しき怪童 西鉄ライオンズ最強打者の真実』/05「日本中が貧しかったから、好きな野球をやりながらメシを食えたらいい、どんぶりメシを腹いっぱい食べられたら、なんでもするという気持ちだったよ」
打撃練習の衝撃
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。 【選手データ】中西太 プロフィール・通算成績 書籍化の際の新たなる取材者は吉田義男さん、米田哲也さん、権藤博さん、王貞治さん、辻恭彦さん、若松勉さん、真弓明信さん、新井宏昌さん、香坂英典さん、栗山英樹さん、大久保博元さん、田口壮さん、岩村明憲さんです。 今回は西鉄入団の1952年の話を抜粋します(一部略)。 1952年、春の鹿児島県鴨池キャンプに参加するため高松を出発。キャンプ地にはチームより少し遅れて入る予定だったが、博多駅に着いたとき、チーム本隊はまだ列車で待機中だった。 ついでにと「早く来て一緒に乗れ!」と合流を急かされた学生服の中西は、急いで大きな荷物4つのうち2つを手ぬぐいで結んで肩に掛け、もう2つを両手に持って駅の連絡橋を走った。振り分け荷物の姿を見て先輩選手は大笑いしたが、中西にすれば、荷物が多いときにいつもやっていたことである。 まもなく発車。席で一息つくと、前に座っていた先輩投手の野口正明が言った。 「硬くならんでよか。正座なんかせんでもよか」 ぶっきらぼうに話す博多弁が怒っているかのように聞こえ、慌てて答えた。 「正座はしておりません」 言い返されたと思ったのか、一瞬、ムッとした表情になった野口だが、あらためて中西を見て、あとは話し掛けなかった。中西は人並外れて太ももが太かったので、普通に座っていても正座したように見えたのだ。 のちに分かったが、野口はチームのうるさ型で、若手の教育係のような存在だった。 キャンプ地での初めてのフリーバッティングも語り草になっている。三原脩監督に言われ、新人ながら一番に打席に入ることになり、自信なさそうな顔をしていた中西だが、いざ始まると大津守ら若手投手から次々快打を飛ばす。最後は「新米に打たれるなんてだらしないぞ!」と怒っていた野口がマウンドに立つも、やはり打たれてしまった。打球は球場外にも飛び、外野の向こうにあった旅館の窓を割ったというからすごい。 当時のエース・川崎徳次は、引退後の評論家時代の取材で「ガンという音とともに、ものすごい勢いで打球がレフトにはじき返され、ピンポン球のように消えていった」とそのときを振り返り、「私は弾丸ライナーの川上(川上哲治)も知っている。ラインドライブの青田(青田昇)の強打にも感心した。その後、長嶋(長嶋茂雄)、王(王貞治)も見てきているが、私の目からは、この中西太を、打撃の第一人者と推すことに、なんのためらいもない」と語っている。 例に挙げたのは他球団も経験する青田を含め、巨人だけでなく、球史を代表する強打者たちだ。 同年、キャンプ、オープン戦と好調を維持した中西は、開幕戦から七番サードでスタメン起用。いきなり打ちまくったわけではないが、徐々に結果を出していった。 「1年目は、ただがむしゃらにやっとったら、三原さんが我慢して使ってくれた感じだった。こっちは何も考えとらんし、将来の目標を立てていたわけでもない。日本中が貧しかったから、好きな野球をやりながらメシを食えたらいい、どんぶりメシを腹いっぱい食べられたら、なんでもするという気持ちだったよ」
週刊ベースボール